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私の父は洋画家でもあります。上野の美術学校で油彩画を学んでから描き続け、帝展と日展の無審査となってからも描き続けました。その為に私は、物心つく頃からアトリエで絵筆を取り続ける父を見て育ちました。パリへの憧れとヨーロッパの色調を追求し続けた父は、入手困難で貴重なフランス製の絵の具を命の次ぎぐらいに大切にしていました。父を真似て絵を描こうとする幼児の私が、大切な絵の具を無駄遣いするのを恐れ、スケッチブックにクレヨンで絵を描かせました。しかし直ぐにクレヨンでは思い通りの絵が描けないからと、生意気にもパステルで描きたがるようになりました。そこで父は友人の洋画家・中村節也画伯に師事させました。幼稚園に通うようになる前のことでした。 中村先生は子ども扱いせずに、丁寧に指導して下さいました。
小学校の図画の授業では不真面目な絵と酷評されていましたが、パステルで油彩画タッチの絵を描く小学生は珍しく、市や県の美術展では数多く受賞しました。6年制校の中学部に入ると美術部の顧問が洋画家の小林良曹画伯だったことから、父を説得して下さり本格的に油彩画を始めました。父によると本格的に絵を始めるのは、大学に入ってからでも遅くないということだったのです。美術部に所属して我が世を得たりとばかりに活躍しましたが高等部になると、大学に入るまでは絵を描いてはならないと禁じられてしまいました。父の指示は当然であることと思えましたので、素直に従いました。 中学で絵を描きたい気持ちが十分満たされたのと、高校では気持ちに絵を描く余裕が無かった為だろうと思います。
小学校の同級生に中曽根弘文氏(参議院議員.元文部大臣)がいます。弘文くんと私は共に"生まれながらの虚弱児"だったために、学校医だった私の父が「虚弱児学級」を作り、1年から3年までそのクラスメイトでした。 学校給食が早期に取り入れられ、なんでもマーガリンで炒めてしまうような高熱食(高カロリー食)を残さず食べるように強いられました。他のクラスには弁当を持って来られなかった子どもがいた時代でしたから、必ず十分に食べられたということは大変なことだったと思います。昼食後に肝油を飲まされ昼寝をさせられ、夏休みには近郊の小林山達磨寺で「林間学校」と称した合宿訓練で鍛えられました。この「虚弱児学級」の生徒は小柄で痩せた"チビでカス"でしたから、運動会では同学年の他クラスとは競技をしませんでした。私と弘文くんは同じクラスだけの徒競走で、次のグループの先頭に追付かれてしまう心配があるほどの遅走ぶりでした。
そして、このクラスは正式名称である「虚弱児学級」と呼ばれることはなく、勝手に「養護学級」と呼ばれたり「特殊学級」と呼ばれたりしていました。ところが後に別の意味で使われることになり、それが一般的になって現在に至っていることから、そう呼ばれた学級がかつて存在し、そこの生徒であったことは互いに言い出しにくくなっています。そのためにか、かつてのクラスメイトたちは強い連帯感で結ばれています。
弘文氏の父君は元総理大臣の中曽根康弘氏ですが、当時は衆議院議員に当選したばかりのころでした。戦後の混乱期でしたから、私の父は法律に詳しい康弘氏になにかと相談していました。中曽根家は高校の北東隣にあり我が家は高校の西隣にあり、校庭を突っ切ると隣家のように近かったので頻繁に交流がありました。
かつてのある日に、父のアトリエで弘文氏と私が油彩によるランプの絵を描いたことがあります。点灯された小さなランプを描いたのですが、往診から戻った父が、ガラスの火屋に焔の明かりを描き入れるようにとアドバイスしました。見たままをそのまま描くならば写真の方がよいを口癖に、なにを描きたいかが見るものに伝わって来る絵でなければならないと言うのです。父は描きたいものだけ描き、描きたく無いところは描かなくてよいと言いながら薔薇の絵を描いて見せました。感心して納得し二人とも火屋に焔の明かりを描き入れましたが、弘文氏はさらに焔の上に黒い筋のように油煙を描き込みました。私が描いた絵が私の手元に残されているものと思っていましたが、どうやら弘文氏が描いたものが残されていました。二人のイニシャルは共に" H.N. "なのです。 お互いに自分の絵を手元に置いたつもりでしたが、私の絵は手元になく弘文氏の絵が残されていたのです。
大学に入って生活に余裕が出るに連れて絵を描きたい気持ちが湧き出ましたが、興味が日本画に移り洋画より性に合っているように思いました。「屍体の告白」など推理小説で作家としても知られている法医学の平嶋侃教授から、平嶋先生が師事している日本画の東原徹画伯の下に通うようお誘いがありました。3年ほどして平嶋先生が退官して旭硝子(株)の健康管理室に移られると、東原先生をお招きして日本画クラブを催すから参加して欲しいとのお誘いがありました。その日に勤務して、精神衛生管理を担当して欲しいとのことでしたが、仕事は大変で、絵の会はさらに大変で、最も大変だったのは会の後の酒宴でした。学生の身分では食べられないご馳走には感動しましたが、両先生はお酒が好きで延々と呑み続けるのには参りました。深夜に両先生をお宅に届け、翌日の二日酔いを想定して大学の研究室か病院の仮眠室に寝ました。
東原徹先生が主催する「東舟会」と平嶋侃先生が主催する「虹の会」のチャリテイ絵画小品展が毎年春と秋に開催されていました。チャリティということもあり人気を博しましたので、年毎に求められる出品枚数が増えました。そのノルマをこなすために大学や病院で暇を見つけては絵を描きました。呆れる目や感心する目など様々な目に曝されましたが、指導教官の土居健郎教授から「今からでも遅くないから絵の道に進んだ方が良いのではないか」と言われ、複雑な心境になりました。地域精神衛生活動に関わるようになって、多くの人たちとの出合いがあり、その中でアフリカの飢餓に興味を持ちました。自分に出来ることはないかと考え、手慣れた「チャリテイ絵画小品展」を個展として開催しました。
中嶋柏樹日本画小品展 昭和60年1月15日午前9時〜午後8時 京王線府中駅北口、府中グリーンプラザ展示場 昭和60年1月19日(土)20日(日)午前9時〜午後5時 新宿駅西口青梅街道交差点角(とみん銀行4階)メモリアル・カルチャー・センター 一昨年の秋、私は「アフリカ難民」のことを知りました。そして自分にも出来ることはないかと考え、1年間に50点の小品を描き上げようと決めました。予定の半分しか描けないかも知れないと思うこともありましたが、千羽鶴を折るような、写経でもするような気持ちで、なんとか頑張りました。
また、純益をできるだけ増やそうと画材店に協力を依頼し、額・色紙など画材を安価で提供してもらいました。50点の作品を「チャリティ展示即売」し、その純益をアフリカで飢えに苦しむ子どもたちに贈ります。作品を見に来ていただき、そして、もし気に入った作品がありましたら、お買い求め下さい。ご多忙中たいへん恐縮でございますが、万障お繰り合わせの上、ご高覧賜りますようご案内申し上げます。
年賀状と暑中見舞にも、色紙の小品と同じようなものを描くつもりで頑張りました。絵の会の兄弟子たちが見事な年賀状と暑中見舞を下さるので、とても戴きっぱなしに出来なかったのです。そして腕も年齢も親子ほど違いますが、目一杯背伸びして一歩でも近づきたいと思ったからです。一枚一枚手描きですから時間を要します。予め構想を練っておきますが、年賀状が発売される11月に"よ〜ぃドン"とばかりに描き始めます。早くに投函しますと元日に届きますと連呼される日々に、じっと耐えながら描き続けます。元日に届くように描き上げたいと思いながらも、寸暇を惜しんで描き続けても元旦に届くように描き上げられる年は滅多にありませんでした。
今になって改めて考えても、一枚余分に描いて残しておけばよかったと惜しまれます。お出しする枚数を描き上げるのが精一杯で、そこまで気が廻らなかったのですが、その年賀状と暑中見舞を今も保存している方がこのページを見て、お貸し下さり掲載できたら旧交を温められ楽しい思い出になると期待しています。
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