ひかりごけ再演によせて

 

 「ひかりごけ」が再演されると聞きました。30年ぶりのことですが、確かな記憶としては残っていないので、さっそく武田泰淳氏の「ひかりごけ」を読んでみました。「ひかりごけ」が「人肉食」をテーマにしていることは朧げながら記憶していたわけですが、読み返してはじめて思い出したことは、著者である武田泰淳氏自身が作品の中で「読者にはあまり歓迎されそうにないこの題材に、なんとかして文学的表現を与えたくて、これを戯曲として表現するという苦肉の策を考案した」といい、戯曲の形でストーリーを展開していることでした。

 それは、情景は「キリストの受難劇ににた騒然たる静寂」だったことです。たしかに、この作品から「キリストの受難劇に似たもの」を観じます。聖書物語には詳しくありませんが、イエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架につけられたとき「彼らは何もわからずにやっている」と心の中で叫んだように、「人肉食裁判」で裁かれている船長も「人肉食という禁を犯してしまった者にしか分からない苦悩ともどかしさ」を訴え続けているように思えます。無意味な裁判に「彼らは何もわからずにやっている」と心の中で苛立ちとともに叫んでいるように思えました。

 野上弥生子氏の「海神丸」も、飢餓に迫られた海上で、船員の一人が肉を喰う目的で、他の船員を殺害しますが、ついには喰うことはしなかったということになっておりますし、大岡昇平氏の「野火」においても、主人公である飢えた兵士は、仲間から与えられた同胞の肉を口まで入れるが、ついに咽喉より下へは飲み下すことはできません。人間を殺すことと人間の肉を食べること、この二つの行為がどこか異なった臭いを発散することだけは感覚的にわかります。現代社会においては殺人犯罪が大量に発生するであろう予感にさえ慣れっこにされてしまっておりますが、人肉喰いとなれば、たとえどんな条件の下に発生しようとも、身震いがするほど嫌悪の念をもよおします。

 第2幕、法廷の場での船長と検事、さらには裁判長、弁護士らとの遣り取りがとてもおもしろい。船長が「食べた私とあなた方とははっきり区別ができます。私の首の後には光の輪が著いているから」といい、よく見れば見えるはずだからよく見ろと叫びます。「光の輪はあれをやった証拠で、やった者には見えないもの」というも検事らが見えないというと、「そんなはずはありません。もしそうなら恐ろしいこってすよ。」と船長は叫ぶ。「見て下さい。よく私を見て下さい。」と、おびただしい光の輪がひしめく検事、裁判長、弁護人らと群衆に取り囲まれて、船長が叫びます。

 ここでキリストをとりまく群衆と娼婦の話がだぶります。卑しい女は救い主に会う資格は無いと群衆は責めますが、イエスは足元の石を拾い「この石をこの女に投げつけることができる者がいたら受け取れ。」と言います。船長を取り囲む群衆も娼婦を取り囲む群衆も私たちなのです。
 劇団四季がなぜここで「ひかりごけ」なのか。「キャッツ」から「オペラ座の怪人」までの流れの中から「夢から醒めた夢」と「ユタと不思議な仲間たち」が出てきたように、「この生命は誰のもの」「エクウス」などに続く作品は、そろそろ「国産品」でありたいし、しかも、これらの作品に勝るとも劣らないものでなくてはならないというところから、「ひかりごけ」、この作品しかないという考えが出てきたように思います。

 30年前、劇団四季を世に送り出した「ひかりごけ」が、「オリジナル作品」を目ざす劇団四季を飛躍させる引き金となり、記念すべき「再演」となることでしょう。

 

 

 

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