「 一味違う回答コーナー 」

月刊「狩猟界」誌連載 

やさしいペットの精神科

 

   心理学コンサルタント  中嶋柏樹
やさしいペットの精神科 (19) 問題行動の解決法 その15
「自傷癖」の行動変容

 

 人間は人間が動物の同一線上にあることを認めながらも、いかに人間は動物とかけ離れた存在であるかを確かめたいと常に努力してきました。立って歩くなど、いろいろと人間が動物と違う点を証拠だててもすぐに崩され、最後の砦として人間は道具を使う唯一の存在とごく最近まで信じられていましたが、サルがハチの巣に細い棒をさし込んでミツを舐めたり、トリがサカナを捕まえるのに小枝を水面に浮かして誘いだすなど、次々と新事実が確認されて、ついに両者は差異のないこととなってしまったようです。これらのことに極めて理性的に判断して納得したと思っても、感情的には同じとは到底思えないのが人間です。苦しまぎれに違いを探し、ついに決定的な差異として確証できるものは“人間は自殺をするが、動物は自殺しない”ということになるようです。

 「自殺(suicide)」を語義どおりに言えば、自ら(sui)を殺す(cide)行為のことで、その結果を予測しつつ、自ら意図して自らを殺す行動と言えます。しかし、実例においては、病死、事故死、他殺の三者がまぎらわしい場合が多く、しかも未遂者において積極的な自殺意図が認められない場合も多いのです。そのために「疑似自殺群」または「自殺境界線例」と呼ばれている者の数は積極的な自殺企図者のそれを上回っているものと考えられています。精神分析学者らは意識下にある死への意思を重視して、アルコールや薬物の依存症のように、徐々に自殺を遂行するような形式の自己破壊を「慢性自殺」と名づけています。

 また、「純粋自殺」と呼ばれている一群は、生活環境からの事情に基づくより、自己追求から行われる自殺であるために「自殺のための自殺」と言われ、パラノイアとかマゾヒストが動機となっているようです。卑近な例として、三島由紀夫の場合などがこれに該当しているように思われます。さらには、直接自殺するかわりに自ら意図して死刑を受けるために重大犯罪を犯す場合があり、これは「間接自殺」と呼ばれています。それに対して過労死や拘禁拷問のように、結果として生活条件が生理的条件をはるかにこえた場合に生じる自殺を「平衡自殺」と呼んでいます。

 

 自殺に未遂はつきものです。

 

 その未遂と既遂の割合は正確につかむことはできませんが、未遂は既遂の八倍弱と言われています。そして未遂は青年層に多く、既遂は老年に多いと報告されています。このことは青年に「アピール自殺」が多く、老年には「逃避自殺」が多いことを示しています。したがって、青年は未遂率の高い睡眠薬自殺を選び、老年は成功率の高い首吊りと入水を選ぶのは当然と言えるようです。自殺は自殺傾向と直接動機の両者が結びついて決行されます。前者は生来の性格と素質のうえに成育過程が加わって準備されてゆくもので、後者は失恋、親しい物の裏切り、破産、そして不治の疾患などがこれにあたります。しかし、この両者の混合がつねに必要とは限りません。

 この両者の結合が自殺に結実した明らかな例もあります。あの川端康成はアルコール依存症にかかり禁断せん妄を数回おこしましたが、睡眠剤の運び屋が死亡して、その運びが絶たれたときに自殺を決意したと言われています。自殺の動機については、社会心理学者は統計に頼り環境因子を重視します。そして精神病理学者は個々の症例を集約して精神病を含む素質に重点をおく傾向が見られるようです。「疑似自殺群」または「自殺境界線例」と呼ばれている者のなかに、意識的には自殺を意図していない「未必の故意」によるものが、数多く含まれているものと考えられています。

 自殺を意図していないはずの「自傷」でも、未必の故意によって死にいたることがあります。精神分析学者たちは自傷を「焦点的自殺」と名づけて、そこに一定の明確な意味づけをしています。思春期の情緒障害としての「手首自傷症候群」はこの好例であり、近ごろでは珍しい現象ではなくなっています。これには慌てる必要はありませんが、軽視もできません。なぜ生じたのか、その意味を考える必要があります。「自殺」は人間の“専売特許”であって、ワンちゃんたちは自殺しないと世間の常識は信じています。そこでワンちゃんたちも自殺をすると言われても、にわかには信じられないでしょう。

 しかし「自傷行為」が死に至り、その経過が“そのつもりはなく”であって、「未必の故意」と解釈することが可能であるならば、気の毒な境遇におかれたワンちゃんが身の不幸を嘆いて死を選ぶ人間の行動と同様の行動が広義にあてはまると考えても間違いではありません。ワンちゃんは数匹の同胞と一緒に生まれても、きょうだいと一緒に過ごせるのはせいぜい6〜9週間までで、新しい家族と生活ではほとんどの場合は“ひとりっ子”として育ちます。そのお宅で子供とお父さんが飼いたがった場合と、お母さんが飼いたがった場合とでは若干異なりますが、いずれにしても飼いたくて飼ったわけですから、大歓迎されて可愛がられます。

 人間の赤ん坊や幼児が可愛い要素で出来あがっているように、ワンちゃんも、この頃は文句なしに可愛い要素で出来あがっています。可愛さのかたまりですから、誰もが自然と微笑みたくなるし、触りたくなりますし、頼まれなくても面倒みたくなります。膝の上でおしっこを漏らしても、絨毯の上にうんちをしても、可愛いから許されてしまうほど可愛がられていても、半年たち1年たつうちに可愛がられる時間よりも放っておかれる時間が多くなってしまいます。幼犬の可愛さから成犬の可愛さに変化しても、その可愛らしさに変わりはないと思っています。

 ところが、意識のうえでは可愛いと思い可愛がっているつもりでも、いつのまにか行動のうえでは可愛がっていることにはならなくなっているのです。お母さんは別にして、お父さんは仕事が忙しいと口実を言い、子供たちは勉強が忙しいと口実を言い、家族はそれぞれワンちゃんの存在を忘れたかのように関心を払わなくなります。はじめワンちゃんを飼うことに積極的でなかったお母さんは、かつて押しつけられた経験とそれで得た自信から、飼うことになってしまってからは愚痴一つ言わず黙々と食べさせ散歩させています。このことは、いつものコースにワンちゃんを散歩させている10人のうち8人までがお母さんであることが証拠だててくれています。

 可愛がりたいから飼いたいと思って飼い、その気が失せたから放っておく勝手さから、救ってくれたお母さんも、可愛がりたがって飼っているお母さんほどには積極的に可愛がってくれるわけではありません。しかし救い主ですから、感謝感激以外のなにものでもありません。しかしながらワンちゃんの気持ちになってみますと、十分に可愛がられ相手にしてもらえたときと、そうでなくなってしまった今との差が著しければ著しいほど、寂しさと放っておかれ感は計りなく大きなものでしょう。

 

 「自傷癖」の行動変容

 

 放っておかれ、苛立ちを強めている気の毒なワンちゃんたちは、その苛立ちから過度に四肢の一部を舐めたり噛んだりします。人間の強迫観念からくる強迫行為に酷似していると解釈可能であることから、その程度に応じて神経性習癖または強迫神経症と診断してもよさそうです。「自傷癖」は“未必の故意”によって回復不可能な障害を残すことになったときに死にいたることもあるから、対応法がわからないとか、そのうちになんとかなると思わないほうがよいでしょう。そして「自傷癖」は気の毒なワンちゃんの悲痛な叫びのサインとして受けとるべきでしょう。「自傷癖」のワンちゃんには、かつてのように可愛がってあげれば治るはずですが、手を抜いた分の数倍は可愛がるつもりで頑張らないと効果はあがりません。罪滅ぼしぐらいの気持ちで頑張らなければなりませんが、そのようにできる飼い主はごく少数です。

 しかし、その方法以外に打つ手がないわけではありません。飼い主は可愛がらねばとばかり考えますが、ワンちゃんが求める「可愛がって欲しい」は「相手にして欲しい」という意味なのです。「可愛がる」は「相手にする」の一部でしかないのです。この重要なポイントに気づいたならば、次のようにしてください。頭を撫でて欲しくて近づいたワンちゃんには、「スワレ」か「フセ」をさせて、称賛の意味合いをもたせて撫でてあげてください。服従訓練になるばかりでなく、喜びは数倍になり満たされる気持ちは比較にならないほどです。またボール捕りなどの「持来」は、喜びが大きく運動にもなり効果的な方法です。さらには「お留守番」をさせること、飼い主が外出してワンちゃんだけにしておくことが特別のことでないと教えなければなりません。それはただ単に飼い主が別れを惜しんだり、かわいそうがったりしなければよいのです。ワンちゃんを連れて行かないのが当然のように外出し、外出から戻っても、待たしておいたのが当然のように振る舞えばよいのです。

 「自傷癖」にまでいたったワンちゃんの可愛がって欲しい気持ちは限りありません。しかし、作業を与えられるだけでその気持ちも満たされてしまいます。甘えたい気持ちも「相手にして欲しい」気持ちだからです。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

oak-wood@ba2.so-net.ne.jp

www02.so-net.ne.jp/~oak-wood/




  

もどる