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ペットの「問題行動」のほとんどは不十分な「躾け」の結果で、躾けをうけて育った様子がまったく見当たらない場合も少なからずあります。ペットの理解が十分でなかった場合、面倒臭がって「手抜き」をした場合など、いずれにしてもペットと人間の共存を維持していくために必要な努力を怠ったことで、このままでは共存関係が壊れてしまうことを承知しつつも必要な努力を怠る「末必の故意」で、飼い主が「問題行動を持つペット」をつくってしまった場合が多いようです。
ペットが飼い主に与えてくれる喜びと安らぎは飼ったことがなくても容易に理解できるものですが、それを得るために支払わなければならない精神的負担が人間の子どもとさほど変わらないと気づきにくいようです。もっとも人間の子どもでも、わが子が「問題少年」になって、初めて「躾け」と「心構え」の大切さに気づかされるわけですから、「問題犬」をもつ飼い主と「問題児」をもつ親とはある面においては一緒かもしれません。
ペットがペットででいてくれているうちの一年間、あるいは人間の子どもが子どもでいてくれている思春期までの間に、無理のない自然なかたちで「躾け」を心掛ければ、まず問題行動を常習とするまでにはいたらないでしょう。
こころならずとも、好ましくない「問題行動」をとるようになってしまった時には、好ましい行動をとれるようになるよう、心理学的「治療」が必要です。そして「行動理論」にもとづいた「好ましくない行動を好ましい行動に<変容>させる」この治療法にも、「対症療法」と「原因療法」とがあります。比較的「軽症」な場合には「対症療法」で十分ですが、速やかに効果が出ない時には「原因療法」を併用する必要があります。
心理学的治療法「行動療法」は、好ましい行動に「変容」させる技法ですが、たまたまとった好ましい行動を「称賛」という「報酬」で強化して、好ましくない行動を消去させるものです。
前号で述べた「アメとムチ」でいえば、すべて「アメ」で好ましい行動を「強化」させるわけですが、好ましくない行動を「ムチ」で「消去」させることは「いじけたペット」を作ってしまうことになるので、極めて限定されたもの以外は禁忌とされています。内科的治療では、限界である重篤な疾患を外科的手術で改善を図るようなものとして、好ましくない行動に対症的に「嫌悪療法」を施す場合がありますが、唯一最良であることが複数の専門家の諒承がえられた時のみ施工されるものです。一般的にいって、「体罰」やそれに類するものはすべて禁忌であると認識しておいたほうがよいでしょう。 「体罰」による「躾け」はあり得ないものと考えていてほしいと思います。
檻(おり) ケージやサークルは原則的には不要なものです。小鳥も育て方によっては鳥籠は不要です。突発的な出来事にビックリして窓から飛びだしてしまう事故はあり得ますから、窓は開けても網戸は開けないなど注意は必要ですが、肩などに留まりたがっても窓から逃げだすことなどありません。同様に犬などもケージやサークル、さらには引き綱も原則的には不要なものです。交通事故などを防ぐためや、好まない人たちに迷惑をかけないために「臨時」に必要となるもので、悪戯をさせないために閉じ込めて置くのは間違いです。「ハウス」は安眠やくつろぎのために、自らは入りたがるもので、入れておくものではありません。
電気ショック首輪 無駄吠え矯正用のものとして「愛犬雑誌」に広告が掲載されていますが、「愛犬用品」ではありません。吠えて不満を訴えるのに「口封じ」は残酷です。 安易な解決は禍根を残すことにもなりますし、「声帯切除手術」は論外です。
手荒な扱い 経験的に「常識」と考えられていることが、本当にその通りであるかどうか改めて確かめられたことはほとんどなく、まことしやかに伝えられているなかに、手荒な矯正法が少なからずあります。吠えたら叩く、噛んでも叩く、飛びついたら胸を蹴る、足を踏むなど。なぜそのような行為にでるか、その理由を考えずに「体罰」を課す方法は、百害あって一利あり程度のものでしかありません。
餌で釣る ペットが可愛さのあまり、つい美味しいものを与えてしまうという口実はよく耳にすることですが、美味しいものを食べさせたくて食べさせることよりも、ペットを自分の言いなりにしたくて食べさせることのほうが多いようです。美食にしてしまうと病気をして食餌制限が必要なときに困ります。肥満にすると成人病や短命につながります。ペットの「生殺与奪」は飼い主にありますから、「お為ごかし」はペットに気の毒です。(つづく)
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