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昨今はペットブームと言われながらも、ブームと言えないほど安定した隆盛を感じさせています。にもかかわらずペットブームと言われ続けるのは、すでにワンちゃんたち、ペットたちとの新たな共存家系が出来上がっているにもかかわらず、そうであることに気づくまでいましばらく時間がかかるためかも知れません。ひと昔前のペット事情を思い起こしてみますと、確かに大きな違いを感じます。一時期はステータスのようにたくさんのスピッツ犬が飼われ、座敷犬という言葉が自慢と羨望の間を飛び交いましたが、ほとんどの飼い犬は柴犬の雑種だったように思います。
時代が変わってネコがネズミを捕らなくなっても、イヌは番犬の役を果たさなければイヌであることが不十分であると飼い主の意識の中にまだ存在していたようです。その証拠に、イヌは必ず首輪をつけ、犬小屋に鎖で繋がれて飼われます。しかもその家の玄関わきに置かれて出入りの見張りができるようになっていて、見知らぬ人を見かけて吠えると優秀なイヌとされました。食餌は残りご飯に味噌汁の残り汁がかかったもので、出し殻のふやけた煮干が数匹のっていれば、それで十分と考えられていました。そしてサンマの頭と骨がのせられていたり、すき焼きの残り汁がかけられでもしたら大変なご馳走と思われました。イヌは残飯で飼うものという固定観念は、人間がイヌと出会った原始時代から継承されてきたものでしょう。
疾病の予防も、狂犬病の予防注射以外には関心が薄く、イヌは鑑札と注射でお金がかかるからネコを飼うという人がいたくらいです。そしてイヌもネコもタダで貰って飼うものと考えられているためか、餌にお金をかけないのと同様に、病気になっても治療を受けさせるという発想はまったくありません。蚊に刺されて伝染する病気であることは知っていてもフィラリアという名称までは知らず、咳を始めたら数カ月で死んでしまう、助からない病気というふうに思われていました。長生きするか短命に終わるかはすべて運命次第ということで、病気に罹って死ねば悲しくて残念だけど、また貰って飼えばよいという考えでした。
雑種でなくて、犬種が見てわかるイヌを飼っているとスゴイと言われ、血統書がついていると知ると、称賛と驚愕の混じった顔をされたものです。貰ったイヌではなくてペットショップで買ったものとか、煮干がのった残飯などではなく牛肉入りのドッグフードを食べているとかが好奇の目で話題になりました。今から思うと隔世の感があります。散歩の途中で見かけるワンちゃんや公園に集まってくるワンちゃんの中に、純系種を見いだすことがいつの間にか珍しくなくなりました。ワンちゃんの食事も味噌汁をかけた残飯というのは、まずほとんど皆無なのではないでしょうか。あるいは、たとえそれが残飯だったとしても飼い主の飽食のお陰で、かつての残飯のイメージとはほど遠いものとなっているでしょう。
もっともドッグフード・メーカーが乱立したために過剰生産となっているためなのか、スーパーマーケットには定価から大幅に値下げしたドッグフードが山積みになっているので、手軽さと栄養バランスなどすべての利点からドッグフードがワンちゃんの食餌として与えられているのではないでしょうか。このように考えてみますと、大型犬を家のなかで飼うなど、かつてアメリカのTV映画で見たことのある家族の光景が身近なところで繰り広げられているようになりました。ワンちゃんの存在が金魚やハムスターなどのペットから離れて家族の一員と認知されるまでになり、ペットと呼ばれながらもその意味するところはパートナーと位置づけられています。少なくとも、そのように見えます。
日本人は“総中流意識”と言われています。言うまでもなく“上”があって“下”があるから“中”があるわけですが、日本人のほとんどが“中流“意識を持ってしまっているということなのです。もちろん、誰でも中流意識を持とうと思えば持てるわけですし、それを持つことで自己矛盾に困らせられたり、周囲の人たちに無理や犠牲を強いることがなければ構わないのです。しかし、日本人の心の底に清貧と分限の思想が絶えてしまったわけではありませんから、この中流意識を抱きつつも、この過剰な意識をけっして好ましい現象であるとはみていない相反する気持ちが混在することも確かでしょう。そして同時に、日本人のもつ“中流意識”は、誰もが心底から思い込んでいるものでないことも確かです。
水面下では忙しく足を動かしていても優雅に湖面を逍遥する水鳥のように、中流を自認したい人たちは余分にはないお金を工面して身辺を高級品で飾ろうとします。一流ブランド品を激安店に行列して買い求めたり、格安の高級品もどきを購入して高級品を所持した気分になろうとしている人たちもいるようです。高級乗用車などももはやステイタス・シンボルではなくなったと言われながらも、それを購入できる余裕があるという証しになります。旅行などレジャーも余裕の象徴とみなされています。ゴルフのパターができる程度の芝生の庭があるのが余裕であり、大きめなイヌを室内犬として飼うのも余裕の象徴なのでしょう。
かつて座敷犬という言葉があったころは、小型犬をネコと同じような飼い方をしたのでしょうが、いまはフローリングの床の生活のなかに大きな体をしたワンちゃんが伸び伸びと暮らしている光景が余裕であり、中流としてのステイタス・シンボルということになるようです。一部には、見るからにゴテゴテと“成り金趣味”そのものといったふうの人たちもいるにはいますが、私たちの生活全般が向上してさりげなく豊かさを感じさせてくれていることも確かなことと思います。誰にも迷惑をかけることにならなければ何をしてもよいという、その誰にもの中に迷惑をかけられても文句を言えないペットたちを含めて考えてあげなければという、ペットたちの気の毒な状況があります。
世の中に子供の勝手に泣かされている親に比べて、勝手な親の犠牲になっている子供ははるかに多くいるようですが、勝手な飼い主に泣かされているペットは、それの桁違いの数はいるでしょう。生後数週間の小犬を衝動買いしてネコ可愛がりして、手に負えなくなると捨ててしまう飼い主や虐待する飼い主は論外として、まったく問題があるとは思えない“模範的飼い主“の中に問題ある飼い主が密かに存在するのです。チンパンジーやイルカなどと、手話でコミュニケイトできるようになり、引き続きワンちゃんたちとも感情の交流が可能になれば、模範的飼い主を装っていた飼い主は“内部告発”されてしまうことになるでしょう。
優雅な美しい毛並みで人気のある純系種と同じ犬種だからと、廉価を理由に粗毛の粗悪犬をペット業者から購入して、その犬種であると自慢するような中流指向の飼い主は、栄養のバランスなどより廉価を優先させて粗悪フードを食べさせるなど一事が万事で、強く引っ張るので散歩に連れて行けない、車に乗りたがらない、わがまま勝手で手に負えないなどとすべてワンちゃんのせいにしてしまいます。家族の一員だから一緒に暮らすといっても、すぐに室内が汚れ、家具が傷むといってベランダの犬小屋に鎖で繋がれて飼われることになってしまいます。室内に入りたがって吠えると、いくら叱っても無駄吠えが直らない、甘えイヌと言われてしまいます。
かつての高度成長前の良き時代のワンちゃんや、高度成長がさほど及ばなかった地方の田舎のワンちゃんは鎖に繋がれて飼われることもなく、数軒の家をまわって餌をもらい、多くの人たちに声をかけてもらい、頭を撫でてもらえる自由な生活でしたから、身勝手な飼い主から不当な扱いを受けそうになっても、難を逃れることができました。飼い主が可愛がってくれなくても、よその家の人たちが可愛がってくれましたから、よい飼い主に恵まれなくても不幸ということにはなりませんでした。ところがいまは、マンションの一室のケージに入れられっぱなしで、朝晩あわせて数時間だけ出してもらえるだけのほとんどお留守番(?)のしっぱなしです。糞尿の量が多いと始末が大変だからと食餌量はわずか、無駄吠えがウルサイからと声帯を切られてしまうなど、ミゼラブルそのものです。
飼い主の都合だけの勝手な飼い方の極端な一例ですが、犬小屋に繋がれたままで餌だけ与えられているという例は無数にあると思います。狂犬病の予防注射をして、放さず繋いで置きさえすればよいとする行政の無策ぶりにも時代おくれを感じます。弱者の権利が十分守られていなくては、豊かな社会とは言えません。日本社会は恥の文化ですから、法律の整備をしなくても行政指導で十分効果があがると思います。しかし、こういったことは動物愛護協会などのボランティア団体が任意に飼育状況を調査して、旅館やホテルのマル適マークのような「優良飼い主章」を発行して表彰し、それを公表していったら、そして、ついには飼い主たちがそのマークがもらえない飼い主では恥ずかしいと感じるようになるまで運動をおし進めたら、無理なく自然に効果があがると思います。
しかし、なんといっても保育園から老人ホームまで、人間の生活が営まれる施設には必ずペットとの触れ合いがあるよう運動を進めたら、自然に馴染めて動物愛護の精神がいつの間にか身についていることになるでしょう。動物も植物もすべての生き物が愛護されて環境が保護されたら、本当の意味での豊かな社会になるでしょう。(完)
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