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ペットを飼う場合には、生まれて間もない、できるだけ早い時期から育てることを勧めています。小鳥でしたら孵って数日の産毛のままの頃から、犬とか猫は「初乳」を飲み終えた生後一週間目には親元から引き取ってミルクを飲ませ、手塩にかけて育てることを勧めます。この頃は、お腹がすけば鳴き、満腹すればひたすら眠り、刺激してあげればオシッコとウンチをします。この時期からベッドとトイレを決めておいてあげて、刺激したあとすぐにトイレ(古新聞紙を重ねておくと、上をとって捨てても臭いがしみているのでトイレの場所を認知しやすい)の上に乗せてあげれば、そのまま自分で歩けるようになる頃には、苦もなくトイレでウンチとオシッコができるようになっています。あらためてトイレット・トレーニングと意気込まなくてもトイレット・トレーニングはできてしまいます。
猫が爪を研いで家中の柱や壁が傷だらけなってしまい、困ってどうしようもないと嘆き、猫を飼っているのだから仕方ないという人が少なからずいて、家の改築を機会に猫を飼うのを止めたという話しも聞きます。猫を飼いたくても飼えないということになったら、なんとも気の毒な話しです。猫が爪を研ぐのを叱っても、必ず飼い主の目のとどかないところで爪研ぎをやらかします。しかし、それを見て「困った性癖」と決めつけないでください。子猫の頃のあまりの可愛らしさに爪研ぎを許してしまったり、少しばかり叱って効果がないと諦めてしまった結果であるにもかかわらず、飼い主は自分自身にその責任があるとは考えず、弁解のできない可哀そうな猫のせいにしてしまうのです。
猫を飼って、トイレット・トレーニングを根気よく躾けることを当然のことのように思っても、場所を決めて「爪研ぎ」をするように躾ようと考える人は少ないようです。トイレット・トレーニングの要領で根気よく躾ることを子猫のころから心掛ければ、まず家の中を傷だらけにされてしまうことはありません。
犬でも猫でも一日中部屋に閉じ込められていたら、そのストレスでワンワン、ニャーニャーと鳴きたくなります。それを「無駄吠え、無駄鳴き」と決めつけ、困った性癖とあたかも「生まれつき」のような言い方をされてしまったら、犬や猫が気の毒です。飼い犬や飼い猫が四つ足で歩いているのをみて、「二本足で歩くようになってくれたらなぁ」と嘆く飼い主はいないと思います。四本で歩くのが当然と思っているでしょうが、訓練次第では二本足で歩くようになります。もっともサーカスや見せ物以外で二本足の歩行訓練をしていることは、まずないと思います。
ところが、ワンワン、ニャーニャーの鳴き声は、なるべく鳴かせたくないと大概の飼い主は望んでいるようです。「鳴かない」とか、「おとなしい」は褒め言葉になっていることからも、鳴かないことが「お利口さん」ということなのでしょう。まったく一言も鳴かなかったら物足りなく感じ、場合によってはもともと「唖」かと思って“欠陥品”のように思ってしまったり、病気かなにかで鳴かないのかと獣医さんに何とかしてもらおうとします。鳴きすぎたり、鳴かなすぎたりではなく、ほどよく鳴いてほしいと飼い主は思うのでしょう。
しかも鳴きすぎると叱ったり、体罰を加えたり、極端な場合には声帯を切ってしまったりします。それでも「無駄鳴き」がおさまらないと、その言い訳として、「このお馬鹿さんは…」という言い方をします。また、犬の「噛みつき癖」と猫の「引っかき癖」も、飼い主たちは困ったと感じるようになって初めて、あたかもそれが「生まれつきの性癖」であるかのような言い方をします。噛むことも引っ掻くことも幼少のうちはその力が弱いので、噛みつきがったり引っ掻いたりするのも可愛いしぐさに思え、時に飛び上がるほど強く噛まれたり、引っ掻かれても、可愛いから「仕方ない」と思ってしまいます。
「仕方なく、認めて」いるように見えても、飼い主は「仕方ないのであって、認めているのではない」と言います。しかし、ペットにしてみれば、「やらせてもらえていること」は「許されていること」であって、「認められていること」なのです。「認めている訳ではない」とか、「許している訳ではない」といわれても、ペットたちには理解できません。彼らにはイエスとノーしかないのです。
ここで大事なことは、好ましい行動に賞賛をあたえる以上に、好ましくない行動をとらせないように心掛けることなのです。好ましくない行動は、飼い主たちが共存に支障を感じて好ましくないと思うものをいいますが、ペットにしてみれば、自らの欲求にもとづくものですから、許されるものなら許して欲しいと思うでしょうし、こっそり目を盗んでもやりたいことなのです。それほどまでに望むことを禁じたいわけですから、とにもかくにも「やらせない」ことなのです。それを常に念頭において、日々の生活のなかで実行することなのです。
なにがなんでも「やらせない」飼い主と、なにがなんでも「やりたい」ペットとの「根比べ」の長期戦ですから、まずは「念頭におく」だけでも、効果がでます。念頭に「おかない」のと比較をしても、そこに差があります。念頭においた「心掛け」にもとづいて行動化し、実行すればしただけ、好ましい効果が得られます。念頭においてもすぐに忘れてしまう人は、努力目標を紙に書いてトイレの壁にでも貼っておけばよいでしょう。また三日坊主の人は家族や親しい人に宣言してしまえばよいのです。
飼い主とペットの関係を人間の「親と子」に置き換えてみても、同じようなことが見受けられます。人間の子どももペットの子どもと同様に、どんなことにも興味をしめし、貪欲にわが物にしようとします。しかも人間の子どもはペットの子どもにくらべ比較にならないほど多くの行動様式を示します。さらに「躾ける」ということは、多種多様な行動を好ましい行動のみをとりうるよう努力させ、ついには好ましい行動のみをとる習慣を身につけさせてしまうことですが、それは特定の行動をとりうるように「制約を与える」ことにほかなりませんから、子どもたちは自由を求め、制約を嫌います。
そして人間の子どもはペットの子どもにくらべ比較にならないほど多くの「自由への逃走」を試みます。その「自由への逃走」のエネルギーは強く、それを押さえ込んで「躾け」ようとするエネルギーはさらに強いものでなければなりません。そのために親たちは生活と仕事に要するエネルギーにまさるとも劣らないだけのエネルギーを「子育て」と「躾け教育」に費やす必要があります。親たちが、子どもに与え、子どもの欲望を満たし、子どもが甘え切るまで努力し、子どもたちが自ら好ましい行動をとるようになるまでの根気強さが必要なのです。
子どもたちは、いきなり好ましい行動と、好ましくない行動を理解できるようになるわけではありません。親が喜び褒めてくれることに反応しているに過ぎない段階から、ことを理解し、自らの意思で好ましい行動をとるようになるまで数段階があります。その間にとる親の態度は、イソップ寓話「北風と太陽」の「太陽」に徹する必要があり、間違っても「北風」であってはなりません。
しかしながら現実は、子育てにもペットの飼育にも必要なエネルギーは費やされてはいないようです。気になっても面倒なので、なりゆきまかせにしてしまう例は多く、うまくいかない場合には子どもやペットの所為にしてしまっているようです。 (つづく)
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