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動物に訓練を施して人間の役に立たせている例は、世界の各地に様々な形で見ることができます。古い建物の壁のなかを新たな電線を通すために「テン」を訓練して、壁を壊すことなく配線できている例があります。歴史のある建物を何時までも残しておきたい気持ちが、その工夫を生んだのでしょう。高い梢になる木の実を「サル」に登らせて、実をもいで落とさせる例もあります。人間が登れないほど高くて細い枝になる実は、サルにまかせるほうが危険を避けられますし、効率は格段によいでしょう。
鷹匠たちは「タカ」にウサギを捕らせますし、鵜匠たちが「ウ」にサカナを捕らせていることはあまりにも有名です。イルカに海洋牧場の魚群を管理させたり、溺れた人間を救助させるよう訓練して、その効果をあげているような、将来に期待がもてる例もあるようです。しかし、 その貢献実績を比べるまでもなく、古今東西「使役犬」の活躍を凌ぐものはないでしょう。
牧畜犬、鳥獣猟犬、引橇犬、番犬など、人類の歴史とともに自然に発生してきたものや、近年、積極的に作出されている盲導犬、麻薬捜査犬、爆発物探知犬、災害救助犬などは、いかに「使役犬」として人間に有益であるかは誰もが知るところです。
盲導犬は目の不自由な人を安全に誘導することであり、麻薬捜査犬はごく微量な麻薬でも鋭い嗅覚で発見することですが、使役犬はその目的に合わせて持てる能力を最大限に発揮できるよう訓練をうけます。持てる能力を最大限に発揮できるよう、無理のない根気強い指導をうけます。
各々がそうした「合目的」的訓練をうけるまえに共通して、専門科目を履修するまえに一般教養科目を履修するように、基本訓練となる「服従訓練」をかならず受けさせらます。
「服従訓練」は、服従という言葉から受ける印象から「隷属」という意味合いも感じてしまい、服従させられるのは気の毒なことように思ってしまうかもしれません。しかし、「服従訓練」を人間と共に気持ちよく付き合っていくために必要な「行儀作法」を学ぶものと考えて欲しいものです。しかも「行儀作法」は動物側だけが一方的に学ぶものではなくて、人間側も動物に対しての「行儀作法」を学ばなければなりません。人間と動物が共存するためには、共に「マナー」が必要ですし、ときには「エチケット」も必要となります。人間同士の関係においてはその必要性は理解できても、人間と動物の関係において「礼儀」が必要とは理解しにくいかも知れません。
しかし、「礼儀」が必要なものと考えておきませんと、生殺与奪の強権をもつ人間の身勝手さがエスカレートして、彼らの尊厳を軽視することになってしまいます。ペットを飼うマナーの良さに定評のある欧米において、毎年、春に「捨て犬、捨て猫」がどっと増えると言われています。クリスマス・プレゼントの犬猫をちょうど飼いきれなくなってしまう時期なのだそうです。鉢植えのシクラメンかシンビジュームのような扱いをされたのでは、ペットも気の毒です。TVの前のソファーにワンちゃんが高イビキで寝ていたら、TVを見るのだからと叩き起こして追い落とすのだはなくて、熟眠の防げにならないよう脇に座り、高イビキでTVが聴きとりにくいようだったらボリュームを上げて聴くぐらいの気遣いが欲しいのです。
強い立場の者は、そうでない者への気遣いは不可欠で、ペットたちも例外ではありません。盲導犬訓練の「服従訓練」は“究極の躾け”であるようにあるように思いますが、盲導犬 訓練が麻薬捜査犬など他の使役犬訓練の「服従訓練」に比べて、そのカリキュラムに違いがあるわけではありません。しかし、盲導犬訓練は他の使役犬訓練に比べて、なぜか違いを感じます。使役犬訓練を熟知しているわけではありませんから、そこに具体的な差異を断言することはできませんが、訓練しさんの犬たちへの接し方に違いがあるように思います。
他の使役犬は隔離された犬舎に置かれて犬たちだけで過ごしていますが、盲導犬は目の不自由な人の伴侶としてほとんど一緒の生活をします。そしてまた盲導犬には「目の不自由な人のお世話をお願いしなくてはならないから」と思ってしまうのかも知れません。ということで、あきらかに「心理的距離」が違うように思います。最近、その存在が知られてきた「介助福祉犬」は、車椅子で生活する人たちに落ちたものを拾ってあげたり、受話器を取ってあげたりするので、人間の「介護福祉士」が病人や障害者のお世話をして感謝されているように、それとほとんど同様にみなされての感謝の気持ちから「准人間」と思いたくなるほど親近感を抱くのではないでしょうか。
訓練の厳しさは他の使役犬の場合と同じでしょうが、努力の成果を賞賛して「グート、グート」という回数も多く、より感情が強くこもっているのだろうと思います。
盲導犬訓練の「服従訓練」が“究極の躾け”であるという所以は、叱りつけてもできないと「馬鹿犬」と決めつけてしまう面倒くさがりやの躾けに比べて、文字どおり「手取り足取り」の懇切丁寧で一見に値する見事さです。「やらせたい」ことを手取り足取りやらせてできたら褒め、「やらせたくない」ことは手取り足取りでやらせないよう阻止して、やらないと褒める。そして、けっして叱ったりはしない、といったことなのです。
この“究極の躾け”を参考にして欲しいのは、愛犬の躾けを考えるときばかりでなく、人間の子どもを躾る時にも参考にして欲しいのです。盲導犬訓練の「服従訓練」を参考にして、それに必要な労力を費やして子どもを躾たならば、非行に走ったり、挫折、ノイローゼになったりすることなどはありません。
幼犬から成犬にいたる約一ヵ年のあいだに、何とか躾をと考える飼い主たちを悩ます問題行動は、「噛む」、「跳びつく」、「引っ張る」の三つのようです。この三つの問題行動も“究極の躾け”を参考にして根負けせずに頑張れば、かならず習慣化することを防ぐことができます。それぞれに若干の工夫は必要になりますが、要は必ず「できる」と思う信念と、そのうちには必ずと思いつづける根気が大切なのです。手に負えなくなるほど「強く」なるまでに、また、手に負えなくなるほど「大きく」なるまでに「躾け」を完了しておけばよいのですが、手に負えないほど「強く、大きく」なってしまってから、強くて大きいので手に負えないといいます。
また、強くて大きいから「女や子どもでは散歩に連れて行くことなどは無理」という言い方が、当然のことのようにまかり通っています。押しつけられたのを断る口実として、「女や子どもでは…」というのであれば納得はできますが、そうではなく、そう思ってしまうのでは互いに不幸です。そうでないということは、「乗馬」が男の大人専用のものではないことが証明してくれます。馬の大きさと強さは犬の比ではありませんが、その馬に、女性と子どもが乗って巧みに操っている事実はあらためて確かめるまでもありません。馬が十分「調教」されていて乗る者が「操縦」方法を知っていれば、誰にでも乗りこなせることができるのです。
力の弱い女性が散歩をさせるのは無理と考えられているのと、訓練所で十分な訓練をうけても、飼い主の家族に子どもがいると、入った訓練がすぐに抜けてしまうと言われているのは、無理を強いたり、扱い方を教えないのが原因であるように思います。躾けをする「時期」については、最適な期間は「いつごろ」であるかというふうな考え方をするのではなく、成長と発達の段階にあわせた「過不足ない対応」の積み重ねが無理のない「自然な躾け」となるように思います。生後、同腹産子はひたすら重なりあって寝て過ごしますが、三週齢が過ぎると体温調節の機構が発達し、保育箱の中がよほど寒くないかぎりは重なりあわず並んで眠るようになります。
そして三週半から四週齢になると、子犬たちは一緒に遊びはじめます。相手の耳をしゃぶったり、顔を舐めたり、前足で撫でたり、どれだけ強く噛むと、どれほどの痛みを相手に与えるかなどを、遊びを通して学習します。さらに視覚や運動能力が発達するにつれ、宝物の奪い合いをしたり、歯をむき唸り声をあげて威嚇をしたり、お腹をだして服従の姿勢を示すようにもなります。この頃から意識的に「イエス」と「ノー」を言葉と語気(声符)、そして身振りと表情(視符)をもって示します。好ましい行動をとったら「賞賛」し、好ましくない行動をとったら「叱責」して欲しいのです。
ここで大切なのは、「当たり前」と思える行動でも、賞賛してあげて欲しいのです。好ましい行動をとり続けてもらうよう、好ましくない行動に変わらせないように、笑顔で「グート」または「よーし」と言ってあげて欲しいのです。「叱責」は即「叩く」などして身体的苦痛をあたえ、「懲らしめが骨身にしみるよう」と考えるのではなく、幼児に言い聞かす時のように、優しくも毅然と「ダメでしょ」とか「イケナイ」といって欲しいのです。そして「スワレ」、「マテ」、「コイ」、「ツケ」の四つを教えれば、ほとんどの行動を制御することができます。よくある一つの例として、喜びを「跳びつき」で示して困ってしまう時も、「スワレ」で阻止することができます。
幼犬の頃は、跳びつくことも噛むことも、引っ張ることも、すべて可愛らしく叱る気になれません。しかし、すぐに大きくなって手に負えなくなります。手に負えないとハウスのままでは勝手すぎて可哀そうです。 (つづく)
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