|
動物をカゴやオリの中に入れて眺めるだけの楽しみよりも、じかに触れることができ、さらには自由にコントロールできたら、動物に接する楽しさがより一層増すということは誰もが知っていることです。人間が動物を巧みにコントロールしている例としては、サーカスの猛獣使いやイルカ・ショーのトレーナーを思い浮かべます。しかし、彼らの「調教」は専門家の技術であって、素人が真似できるようなものではありません。しかし、私たちがその気になって多少の努力を惜しまなければ、私たちにも楽しめる動物のコントロールの例として、「乗馬」を挙げることができます。
オリンピックや国体をめざす馬術競技のようなものは別として、最寄りの乗馬クラブで騎乗練習をして、リゾート地にある乗馬クラブで外乗 (場外騎乗)を楽しむ方法は、ゴルフを楽しむのとよく似て気軽なレジャーと言えます。しかもゴルフほど技術の習得に努力は必要としません。そこでの通念として、百鞍(騎乗一回を一鞍という)乗れば誰でも一人前と言われています。その乗馬は、調教された馬に操縦法をマスターした者が乗るという構成で成り立ちますが、「犬を飼う」ということも、ほとんどそれと同じと考えられます。訓練された犬に扱い方をマスターした者が飼うという構成で成り立つわけですが、これを認識している飼い主は残念ながらほとんど見当たりません。
さらには乗馬の場合は、騎乗練習さえすれば楽しめ、調教まで習得する必要はありませんが、犬を飼う場合には飼い主が努力してすべてを賄わなければなりません。
そうすることを自力でできない場合には、訓練所へ通って愛犬と飼い主が一緒に指導を受けることとなります。犬小屋につないで餌を与えて時に散歩をすれば「犬を飼っている」と言えなくはありませんが、犬を飼うからには一緒に訓練所へも通う心掛けで飼えば、その楽しみは大きく、比べようもありません。愛犬を育てて躾けることは、人間の子供を育てて躾けるのと、なんら変わりはありません。しかし、ほとんどの飼い主は「人間の子供とは違う、同じようにいかない」と言い、子育ての経験がそのまま愛犬の飼育に役立つとは考えられないようです。
人間の子供の場合は親の言うことを聞き分けて、理屈で納得し、言うことを聞く、というふうになっていて、親も子供に理屈で納得してもらえると安心します。親の強権に屈服させられて、仕方なく応じたと思われたくないのでしょう。戦後の民主教育の成果なのか「封建的な親」と思われたくない情緒的な考えが強く染みついているためなのか、親友か先輩からのアドバイスのように「言い聞かせたい」ようです。「良いことは良い」、「悪いことは悪い」と一方的に教え込まなければならないことをためらい、中途半端にしてきてしまったために、思春期の子供から「なぜ学校へ」とか、「なぜ就職を」などと問われ、返答に窮してしまうことになるのです。愛犬の場合も、説明して納得してもらうことも大切ですが、理屈は抜きにして、「反射的に反応」してくれると、苦労せずに助かりますし、その必要があります。
散歩の途中で道路の反対側にいる犬に合いたいからと飛び出されても困りますし、自転車で散歩をしている最中にマーキングの臭いを嗅ぎたいからと植え込みに飛び込まれたら怪我をします。危険を未然に防ぐためにも、「反射的に反応」できるよう躾けておく必要があります。飼い主が助かるばかりでなく、愛犬もためらい迷うことなく助かるようです。愛犬が半年から一年ぐらい経ったころに、若葉マークの飼い主たちが異口同音に訴えることは、「ジャレて痛く噛む「」はしゃいで跳びつく」「リードを引っ張る」の「三因」です。
可愛いからと「厳しい愛情」で接することなく、また日本人の子育て感覚で「わかる時期になったら諭す」と思っていたら、あっというまに大きくなって手に負えなくなってしまったということのようです。半年も経つと体型に幼さを残していても、大きさと力強さは成犬そのものです。同腹産子の兄弟姉妹と一緒に育ったならば、どの程度に噛んだらよいかなどを遊びを通じて学びますし、親と一緒でしたら喉元をくわえてねじ伏せるなどして厳しく教えます。人間の家族の一員として「可愛がられる」ばかりでは、大切なことを学ばねばならない時期に大切なことを学ばずに過ごしてきてしまいます。
躾けるに適した時期としては、いろいろなことに興味を示す三ヵ月ぐらいから、日常生活の中で遊びを通して基本を教え、意欲と行動力が旺盛となり、自己顕示欲が出始める半年から一年ぐらいの間に妥協せずしっかりと躾ます。しかし、この時期を逸してしまったからといって躾られないということはありません。
ワンちゃんのいるお宅を訪問して、玄関のチャイムを鳴らすと同時に「ワワーンッ」と大きな吠え声が聞こえ、次いで「ちょっと待ってくださーい」と悲鳴のような声が聞こえます。カシャカシャと足の爪が床を掻き鳴らす音がして、時にドタドタンバタンと跳びまわる音が聞こえたりします。そしてドアが開き、「お客さんが来ると喜んで、手がつけられなくなるんです」と、決り文句の説明が続きます。よく出くわす光景で、愛犬が家族と一緒に静かに出迎えることは滅多にありません。そして歓喜のワンちゃんはケージにハウスさせられてしまうか、ベランダに出され、ガラス戸に鼻をくっつけ曇らせているかです。
いままでにお年寄りや小さな子供に跳びついて、転倒させてしまったことがあって、うっかり油断はできないとぼやきます。「跳びつき」さえしなければ、誰とでも仲良くしていただけるのですが、と残念がります。残念がるのは飼い主ばかりでなく、当のワンちゃんもせっかくの機会をうらめしく眺めているに違いありません。
「跳びつき」のあるワンちゃんの癖をなおしてあげたいと飼い主は苦慮し、専門家や詳しい人から教えてもらい、まことしやかな矯正法にしたがって「恐ろしい虐待」をすることになってしまいます。
跳びついてきたら「膝で胸を蹴るように」とか、跳びついたら「後ろ足を踏みつけろ」など、性格を歪めてしまう危険性や、萎縮した行動をとるようになってしまう危険性を無視した指導がまかり通っています。「跳びつき」を癖であるとか習性であると理解する人たちは、付いてしまったものはとれないと考えているようで、「なぜ跳びつくのか」とは考えないようです。しかし、「なぜ」と考えることは、とても大切なことなのです。そして、「なぜ」を考えてあげないとワンちゃんたちが気の毒です。
「跳びつき」の理由は主に二つあって、一つは「仲よしジャンプ」であり、いま一つは「偉ぶりジャンプ」です。ワンちゃんが仲よくできる相手は、ときたま犬同士でということもありますが、ほとんどの場合は人間です。犬同士で仲よくしようと近づいて、お互いに相手を確かめようと顔やお尻を舐め、匂いをクンクン嗅ぐのに、背の高さが同じぐらいで好都合ですが、人間との場合にはお尻の臭いを嗅げても顔にはとどきません。顔の臭いを嗅ぐためには、あるいは舐めて確かめる時には、「仲よしジャンプ」で跳びつくしかないのです。小さな犬が大きな犬と仲よくしようと、「仲よしジャンプ」をすることがありますが、この場合も跳びつかないととどかないからです。
「仲よしジャンプ」は人間との友好を深めたくて、顔や手の臭いを嗅いだり舐めたりしようと跳びつくのですが、跳びつかれて喜んだ人間が「奨励」してしまう場合が多々あります。意識的に奨励するような場合よりも、奨励しないように心がけていて察知されてしまうことのほうが多いようです。いずれにしても仲よしジャンプは「強化」されて、急激にエスカレートしてしまうのです。「偉ぶりジャンプ」は群れ社会での支配力を誇示したり、あるいは支配権を奪うための行動として存在していたものです。犬とよりも人間と一緒に暮らすほうが多い現在でも、その習慣が残り、縦社会の上下関係をつねに確認していて、折あらば支配権を確立しようとします。
跳びついて前足をいつまでもかけ続けていたら支配欲の強い表れで、それを許したならば支配を受け入れて、従属したことになります。通常は跳びついた前足をいつまでもかけ続けさせませんから、ガッカリしてさらに大きな決意をもってジャンプします。「偉ぶりジャンプ」をしようとするワンちゃんは、他の行動を見ても偉そうに威張っていて親分風を吹かせています。「仲よしジャンプ」で跳びつく場合には、どことなく「可愛らしさ」が感じられます。ごく希には「可愛らしく支配しよう」とする場合もあります。
「仲よしジャンプ」と「偉ぶりジャンプ」で一番困るのは、初対面の人に積極的になることです。跳びつきたくなる気持ちをほかに振り替えるのはとても大変なことです。ボールや美味しいもので釣っても、その場限りで解決にはなりません。このような時には「反射行動」に頼るしかありません。「マテ」と「スワレ」を教え、考えるまもなく「反射」で応じてしまうようにして、「跳びつき」を未然に防ぎます。「スワレ」を守り、おとなしくしていたら、褒めてあげましょう。喜んで「スワレ」が持続します。「マテ」と「スワレ」で期待が惹起します。「マテ」と「スワレ」の後には遊びが不可欠です。(つづく)
|