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誕生する生命には神秘さと厳粛さがともない、そこに立ち会ったものに感動を与えずにはおきません。その神秘さと厳粛さに変わりはありませんが、人間の子供の誕生場面と犬などペットの誕生場面を比べてみますと、その感動に若干の違いを感じます。意外なようですが、人間の子供の場合には仮死状態で産まれてきたような時でないと、産声をあげる前の状態と産声をあげた後の様子の比較はできにくいわけですが、犬などはグレーの半透明の羊膜に包まれて真空パック包装でもされているかのように萎びてペシャンコの状態で産み落とされ、母犬に舐め取ってもらって外気に触れた途端にもがいて産声をあげますが、産声をあげた瞬間に萎びたペシャンコがプッと膨れます。
そして膨れた瞬間に生気が溢れます。この瞬間こそが誕生劇のハイライトであり、その前と後との変化に生命の力動を感じます。この劇的な瞬間を観察させてくれる分だけ感動が強いように思います。産まれたばかりの子犬は空を掻きもがくばかりですが、母犬の懐に抱え込まれるや否や猛然と乳首を探し、チュバチュバと激しい音をたててオッパイを飲みます。脳も感覚器も未発達な段階であっても「探して飲む」行動だけは先天的に遺伝子情報にプログラムされているようで、即、機能し、「鼻面」は探査レーダーのように目標を発見し誘導します。
産まれた時にはすでに立派な毛皮にくるまっていて、「五体満足」で完成されているように見えますが、よく見ると閉じたまぶたの下の目玉はまだ出来上がっていないようですし、耳も穴は塞がっていてまだ未完成のようです。ところが嗅覚はすでに機能しているようで、母犬の乳首にメンソレータムのようなものをうっすらと塗りつけておくとメンソレータム様の臭いのついたほうの哺乳瓶に吸いつく頻度が高いという研究報告があります。もちろん、固いもの、柔らかいもの、冷たいもの、温かいものにも敏感に反応しますから、それらが総合的な機序によって作用するわけでしょうが、いずれにしても「鼻面」は複合探査レーダーとして産まれた時からつねに機能しているようです。
遠くにあるものを臭いで探知し、近づいてからも十分臭いを嗅ぎ、接触すると舐めて確かめ、さらには齧って確かめます。舐めて齧る様子は人間が手にとって確かめているのと全く同じように思えます。母犬が子犬を舐めたり、前歯をこきざみに噛み合わせて梳き、櫛削っているようなグルーミングの様子は、人間が手で撫で、櫛をもってブラッシングしてあげているのと同じような意味合いに思え、前足が人間の手のように動かせたらと、もどかしく思っているのではないかと思ってしまうほどです。このように「舐める」、「齧る」は鼻面レーダーと連動した「マジックハンド」の機能をもっているのです。もちろん、食餌をとる捕食機能、攻撃や防御のための武器機能もあるわけですが、乳幼犬をそっと口にくわえて運ぶような時とか、不快に動く人間の手をそっと口でくわえて抑える様は明らかに口が手の代わりであり、「噛む」は「つかむ」であることがわかります。
犬をはじめ猫、小鳥など、ほとんどのペットたちが口を人間の手のように使用しています。手も足も人間以上に自由自在な使いこなしをするサルや類人猿たちでさえ、さらに口を人間の手のような意味合いで使用していますから、口は想像以上に多目的な役割を持たされていることがわかります。しかも、ペットたちは口を意図的に使用することよりも、反射的に使用することが圧倒的に多いようです。反射的に使用してしまうものを自制、内制止させるように仕向けることは容易なことでありません。
また、これほどに重宝している口に「咬みつき予防」として口輪をはめてしまったら、飼い主が目隠しをして生活するのと同じくらいの不自由さを強いることになるのではないでしょうか。
子犬の生後2週齢くらいまではいわゆる新生児期で、空腹になると目を覚まし、満腹になるとひたすら眠る生活ですが、3週から4週齢になると随意運動、すなわち意識的な行動をつかさどる神経回路が前脳部につながり、いままで母犬の刺激で可能だった排泄行動が随意的にコントロールされるようになります。触られたことや痛みなどもボンヤリした半反射的のものから、意識的に感知し知覚するようになります。脊髄と脳幹部での生命維持に関する反射運動ばかりだった段階から大脳皮質、とくに記憶や学習をつかさどる前頭葉が発達してくると、旺盛な学習意欲を見せ始めます。
顔を舐めたり、前足で撫でたり、自分の尾を追いかけたりといった未発達な遊びは、視覚や運動能力が発達するにつれて変化に富んだものになります。玩具のようなものを獲物かなにかに見立てて遊ぶ「ひとり遊び」より、同種の仲間や他種の動物(たまたま一緒に飼われているネコやウサギなど)と「社会的な遊び」を好むようになります。 遊びの闘争や追いかけ遊び、首筋を押さえつけて振り回し降参させる「捕獲遊び」は、四週から五週齢に見られるようになります。跳びかかったり、歯をむき出して唸り声を出したりするようになり、服従姿勢や遊びを誘う仕種も現れてきます。
じゃれあいの闘争ごっこには、本当の闘争のような荒々しさは感じられませんが、突如として本当の闘争が始まることがあります。おそらく、どちらかが強く咬みすぎ、びっくりした相手が身を守るために咬み返すからでしょう。最初に咬んだほうは、それに懲りて、今度からはそれほど強く咬んではならないということを学びとります。子犬は3ヵ月から4ヵ月齢で「柔らかく」咬むことをおぼえます。ところが、他の犬と隔離されて人間の手で育てられた子犬は、このような「制御」を獲得する機会がありません。飼い主が教えてあげないと覚える機会はないのです。
可愛らしい子犬の無邪気な顔、しかもたいして痛くもないとすると、どうしても叱る気になりません。やさしく叱っても叱ったことにはなりません。人間の子供と同じように、そのうち「わかる」ようになるだろうと、ほとんどの飼い主が思ってしまいます。面倒臭がりであったり、躾けに関心がうすかったりすることもあるでしょうが、人間の子供の「子育て」と同じ考え方で「飼育」してしまうように思えます。日本人の子育ての方法と欧米人のそれとがまったく正反対であることが、周知の事実として知られています。日本人の親が考える「躾け法」は、善悪の区別がつかない幼少期に叱っても仕方のないことで、理解できる年齢になったら言って聴かせればよいというものです。
それに対して欧米人の親の考え方は、まさに「鉄は熱いうちに打て」であり、「悪魔の囁きは芽のうちに摘み取れ」というもののようです。「神の導き」と「悪魔の誘惑」は理屈以前の問題であるということであって、自明の理ということなのでしょう。一神教と多神教の違い、「対決」と「共存」という文化の違いからきたものでしょうが、高度成長期以降に社会問題化している登校拒否や家庭内暴力などを解決して予防していくためには、「欧米の躾け法」が適しているように思います。子犬が「柔らかく咬む」ようになるのが四ヵ月齢ですが、人間の子供に換算すると小学校へ入学する年齢です。この年齢になるまでに親は責任を持ってやっても「よい」ことと、やっては「いけない」ことを教え込まなければなりません。
この時期に怠って思春期になってその必要を感じても後の祭りです。親よりも背が高くなり、腕力も強くなってからでは、親の意見に従わせようとしても無理というものです。犯罪や虞犯が絡まなければ、矯正施設の利用はできません。
子犬も人間の子供も、小さいうちに「よいこと」と「いけないこと」を教え込んでおくことが大切です。どちらも勝手な振る舞いをしたくなる年齢になるまでに、社会のルールとして「許容限度」があることを教えなければなりません。従順な手乗りの小鳥でもおとなしくしていてくれるのは1歳までで、1歳過ぎると勝手に振舞うようになり、無理やり従わせようとすると飛び上がるほど痛く噛みます。なんの努力もしないで従順でいて欲しいと思う飼い主のほうが勝手なのかも知れません。一寸の虫にも五分の魂です。「咬みつき癖」には二種類あって、子犬のころに「柔らかく噛む」ことを学ばずにきてしまったものと、「窮鼠猫を咬む」のように気が弱くて過剰な怯えが反射的に噛ませてしまうものとあるようです。
どちらの場合でも早い時期に飼い主が気づき、それなりの配慮で優しく「言って聴かす」だけで改まりますし、「怯える状況」をつくらないようにしてあげれば過剰防衛の事故は防げるのです。しかし、さらに誰からも可愛がられたこともなく誰にも甘えたことのない場合には、咬むから叩かれ、咬む癖を直すといって叩かれ、ただ恐怖感を積み重ねるだけになってしまいます。危害から身を守ろうと歯をむき、結果、咬みついてしまうことになり、矯正不能の「咬みつき犬」というレッテルをはられてしまいます。不用意な人は、犬を前にして仁王立ちになり、じっと見つめ(にらみ)、びっくりするほど早足で近づいたり、触ったり引っ張ったりするなど、犬が驚いて咬みついても仕方ないような状況をつくってしまいます。
「咬みつき癖」のある犬も、ほとんどの場合は飼い主を噛んだりはしません。しかし、ごく希に咬む場合があります。保護者と思えないほど虐待を今までに受けてきたか、主従が逆転しているような場合です。(つづく)
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