古美術骨董・三貴甲冑堂

  Kobijutsu Mitakakachudo 

〒370-0812 高崎市成田町31

Tel & Fax 027-322-3192

 

 三貴甲冑堂・中島家は、今から400年余まえに九州薩摩・島津家から出ていると言い伝えられています。島津藩のアンテナとして、東国の情勢を収集するのが目的だったとの説があります。確かな証拠となる文書類は残されていませんが、東海道の大井川と並ぶ中仙道の烏川に居を構えたことが主な"情況証拠"のようです。              

 越前島津家は17代当主義弘を最後に忽然と途絶えてしまい、2つの分家が本家を名乗る争いがありました。本当の理由は確かめようもありませんが、当主義弘の長男一家が徳川将軍家の開幕準備のために江戸へ出仕する道中の途中で行方不明になったのです。菩提寺が2度の火災に焼け落ちて過去帳もろとも全てが消失しているので証拠だてるものはありませんが、同じ時期に同じ場所で越前島津家17代当主義弘の長男一家が消息を絶ち、轡(くつわ:丸に十)を連想させる家紋を持った中島家と高津家が始まったことは無縁と思えません。

 両家の墓地は今や地域の共同墓地のようになってしまっていますが、両家の墓石には「丸に十」と「丸に田」の2種類があります。幕府ににらまれ圧力を受けた時代には、「丸に田」の家紋にしていたとのことです。外様大名である島津家が最後の将軍を決める時まで影響を持ち続けて来られた政治力は、極めて確かな全国諸大名の情勢を常に掌握できていたからでしょう。

 そのことから、薩摩の島津本家から密命を受けて中仙道の往来を見張る為に土着した「残地諜者」という考え方が伝承となって来ています。

 

 

   

 中仙道・烏川の渡し場近くに土着して島津姓を中島姓と高津姓に分け、家紋の轡(くつわ:丸に十)を丸に田としました。幕府の嫌疑を避けるためのものだったようで、墓石の家紋は明治以降にまた轡(丸に十)に戻っています。上州多野郡中島村(現在は群馬県藤岡市中島町)となり、渡し場の宿として栄えました。

   

 中島村の主な家名は中島姓と高津姓だけですが、中島本家は名主であり大百姓でした。代々総領は営農の傍ら医業を継ぎましたが、分家は染色・織物・鍛治など家内工業に従事する兼業農家でした。関東平野の最北端に位置して、広大な肥沃な耕地を所有していたので、戦後の「農地解放」に遭うまでは多くの小作を擁した地主農家として繁栄しました。

   

 高津本家も多くの小作を擁した地主農家でしたが、旅館経営・渡し場管理そして中仙道沿いの家作を:旅篭や商家に提供していました。天明3年の「江戸の大飢饉」から逃れて来た大勢の避難民たちに、糠・フスマに雑穀と樹皮や野草を混ぜて作った焼き餅を売り巨万の富を得ました。

   

 焼き餅を買うために並ぶ難民の列は宿外れまで続き、その列は半月以上も続いたそうです。米蔵を空にして得た財力で、高崎城の天守閣よりも立派であると噂された3階建ての屋敷を新築しました。中仙道を挟んで南に中島本家と菩醍・観音寺がそびえ、北にその高津本家がそびえていました。

 三貴甲冑堂の店舗のある建物は、父君が昭和の初めに医院として建てたものです。父君 の代に高崎に出て生活の本拠地は中島村から離れましたが、田畑は小作に任せ屋敷はそのまま「出張り診療所」として残しました。しかし、終戦後の「農地解放」を切掛けにして 屋敷跡地と田畑は小作だった農家にすべて譲渡しました。

 父君は医師でしたが、洋画家としても知られていました。書画骨董の蒐集でも知られていましたが、中村節也や村上鬼城など地元出身の画家や詩人の無名時代から交流があったために、いつのまにか蒐集家のようになってしまったようです。徳川夢声らの「ゆうもあ くらぶ」のメンバーとなって、さらに蒐集が拡がったようです。

 中島家はこの地に根を下ろして400年余になろうとしている歴史を有する家系ですから 蔵の中には雑多な蒐蔵品が詰め込まれていました。しかし、民族・博物学的に意味ある蒐蔵品であっても、古美術・骨董としての価値のあるものは僅かでした。父君の蒐集である古美術品・骨董品が三貴甲冑堂の扱う品々の高品質を保証しているのでしょう。