「霧のロンドン 」日本人画家滞英記 |
1912年「WHEN I WAS A CHILD」掲載写真
ヨシオ・マルキノ(Yoshio Markino
=牧野義雄)は 1897年から1942年までロンドンに住んで、
45年間も「ロンドンの霧」を描き続けて英仏を主とした欧州で知られた画家でした。
随筆家であり思想家としても知られていた。20世紀前半の英国において、高い評価を得た日本人である。
1869年愛知県豊田市に生まれ、米国人牧師
クラインが創設した名古屋英和学校で学んだ。
サンフランシスコに渡り、カリフォルニア州立大学の
美術学校で学んだ。
その後に、ロンドンに移りゴールドスミス
美術学校とロンドン中央美術学校に学んだが、真の意味での彼の絵の学校はロンドンの町角だった。
Introduction by S.I.Tsunematsu
チェルシーに住んでいた私は、テームズ河岸通りの
チェルシー・エンバンクメント築堤をよく散策した。
そこは当時も今も、私のお気に入りの場所だ。
私が愛した霧のロンドン
1906年の夏は、例年になくひどく暑かった。友だちは皆、町から逃げ出していたが、私はお金がなくロンドンを離れられなかった。といっても、ロンドンがとても気に入っていた私は、みんなをうらやましいとは思わなかった。ロンドンにはもう9年以上住んでいるが、退屈だと感じたことは一度もない。私は毎日外出するのだが、そのたびに、何か新しい感銘を受ける。だからあの夏も、ひどい暑さにもかかわらず、私はロンドンで嬉々として勉強していた。
ロンドン漱石記念館長恒松郁生訳
サウス・ケンジントンでの絵の勉強のことだ。
私はそこで翌年の1898年まで、木炭画を学
ぶ一方、毎日曜には日本人の友だちに会いにグ
リニッジへ行った。
そのとき、突然私のスケッチを本にするという話をもちかけられた。「とんでもない」と私は思った。「私はまだ学生、ただの万年学生にすぎない。思いどおりに手が動くともいえない。ともかく、これまでに自分に満足のいくスケッチは一枚も仕上げていない。作品を発表するのはまだ早すぎる」そんな状態だったから、申し出はとけもうれしかったが、すぐにはウンとはいえなかった。
しかし、今ではその親切に心から感謝しているが、友だちたちがあまり強くすすめるので、私は断わり切れずに申し出を受けた。
英国女性の素晴しさ
ロンドンに住もうと決めたのが、日英両国が同盟関係にあったときだったのは、私にとって実に運がよかった。親しい友だちばかりでなく、善良な英国人たちは皆、私に好意をもってくれている。だいたいにおいて、芸術家というものはひどく感傷的だが、私の場合はとくにその傾向が強く、こういった好意は仕事の大きな励みとも、助けともなる。しかし、私がロンドンを愛しているのは、英国が同盟国だからでも、その他、いかなる政治的、経済的理由からでもない。
豊田市文化財奏書叢書「述懐日記」
私の新しい住まいは、メイズヒル駅に近い
アナンディル・ロード96番地にあった。
それは郊外によくある二階建ての小さな家だ
った。私の部屋は家の裏手にあった。
ロンドンの印象を率直に書いてみよう。私は英国女性の熱心な崇拝者なのだ。私は彼女たちのすらりとした肢体が三日月よりもしなやかに見え、ふくよかな肢体はシャクヤクより優雅に思える。白とピンクのその肌の色は、彼女たちの国花バラを象徴しているようだ。桜の花といえども、その美しさの前にかなうまい。またその金色の髪は菊よりあでやかで、黒みがかった髪と乳白色の肌とのコントラストは、月夜に映える西洋ナシの花より美しい。それに、チョコレート色の髪ときたら、どんな花にもたとえようがない。
ピカデリー・サーカスの夜景
家主の夫婦には、エルシーとウイニーという
二人の娘がいた。姉の方が11歳、妹が8歳
だった。二人ともとても可愛いかった。
ロンドンはまさに、四季を問わずもっとも美しい「生きた」花園だ。とくに彼女たちのドレスは、色、形ともに素晴しい。またファッションのことを心得ている女性たちは、実にうまく帽子をかぶる。どんな形の物でも、まるで身体の一部のように見える。だが、ときにはドレスの色が着る人に合っていないと感じさせられることがある。本来の美しさをドレスで台なしにしてしまうなんて。色のことがよくわからなければ、黒と白を着ればいい。黒と白は誰にでも似合う。毛皮も、誰が着ても魅力的だ。ある種の「子どもっぽさをもった美しさ」をかもしだす。
国会議事堂のテラスでのお茶
ケンサル・ライズに引っ越したので、ロンドン
中央美術学校にかわった。ウイルソン先生は、私
の日本的な画風を生かせば、将来への道がきっと
開けるといって励ましてくれた。
中流階級の女性のなかで、日曜や銀行休日にひどく大きな帽子をよくかぶる人がいるが彼女たちはその帽子を買うのに、(それぞれの懐具合に合わせて)途方もない額の金を費やしているに違いない。それに、かなりの手間をかけているのだろうが、どう見ても美的とはいえない。なかにはゆでたロブスターやカニを五、六匹のせたように見える物さえある。私の考えでは、タモシャンター(おもにスコットランドで用いられるずきん形の大きな帽子)をかぶったほうがいいと思う。
ハイドパークのチャーチパレード
インクランドの北風は厳しく耐え難いかも
知れません。でも私にはそれが必要なので
す。耐え難い日々から私は大切なものを学
んでいます。それは自立の精神です。
この帽子もどちらかといえばエレガントとはいい難いが、かわいらしさがある。それから、うしろにスリットの入ったスカートをはいたとき、女性はもっと気をつけたほうがよいと思う。裾をもち上げるとき、左手ではなく右手を使うようにしないと、自分では知らないうちにうしろの人にとんでもない格好を見せることになる。そういった光景に出会うと、私はいつも目を閉じる。
チェルシーのエンバンクメント
ドライハースト夫人はときどき、日本料理を作る
ための教室を開いた。私がコック長で、夫人と娘
さんとお客さんの数人かが私の助手を努めた。
雨の日、スカートを濡らすまいとして手でからげ、スカートの裏地やペティコートを人目にさらしてしまう老婦人がいる。ありがたいことに、若い女性はあまりそういうことはしない。おそらく、老婦人は外観よりも経済性のほうに気を遣うのだろう。美的見地からいって私が若い女性のほうを好むのは、このためだ。実用的でない理想をもちつづけることこそ、その人の芸術でもあり、生き方でもあるのだ。
洗練された英国男性たち
英国の男性に対する私の興味は、女性に対する興味にまさるとも劣らない。世界の文明国のトップレベルまで自国を引き上げた、学識深く、洗練された英国紳士たちに対する私の称賛の念はいうまでもない。ひと言だけいわせてもらうなら、彼らのような友だちを多くもっている私は何と幸せなことか。大柄でがっしりした典型的な英国男性が、長いストッキングにハンティング帽子をかぶり、スコットランド・スーツを身につけている姿を見るのはとても楽しい。
チェルシー・エンバンクメントの夜店
毎日貧困に追われていたが、わずかな金子を
得るために意に沿わないデッサン画などを描
くのはやめた。念願であるロンドンの霧を描
くために観察を始めた。それ程に霧を愛した。
彼らがくわえているパイプは、色ばかりでなく、形までも彼らの鼻そっくりだ。どこへいっても私が日本人だということで、たいてい歓待してくれる。男たちはありったけの力で私の手を握る。指の骨が粉々になるのではないかと思うこともたびたびだが、私はいつも彼らの心からの好意に微笑みをもって応える。ときには、手の痛みを耐えながら、大声で笑ったり、「万歳」を叫んでそれに応えることさえある。
午前4時のコベントガーデン市場
愛し合って結婚するというのは確かに聞こえ
は良い。だが、そう言って結婚した人のうち
愛というものを解る人が何人いるだろうか。
また、ロンドンの乗合馬車の御者を見ると、私はいつも、ごく若い頃日本で読んだワシントン・アービングの「スケッチブック」を思い出す。この本のなかで、アービングは実に生き生きと御者たちの様子を描いている。そのため、私には彼らがまるで旧知の友のように思える。ロンドンの趣のある光景をつくるのに、彼らが一役買っているのに間違いはないが、馬車の上階に乗っているとき、御者が刻みタバコを吸い出そうものなら、私はすぐ飛び降りる。彼らの吸うタバコはとても強く、煙が顔にかかると鼻から入った煙が目にまでしみ、まるでからしを匙一杯ほおばりでもしたかのように涙があふれてくる。
ハイドパークのコンスティテューション・アーチ
ロンドンの霧はその印象をとらえることが
とても難しい。それをまだ旨く表現できた
ためしがない。いくら観察しても飽きない。
それから、大好きなロンドンの警官たちのことも忘れずに書いておきたい。ロンドンの警官たちはとても人がよく、よそからきた人間に親切だ。テームズ河の河岸通りをスケッチにいったとき「見晴らしがよいように」と、私を抱き上げ、テームズ地区消防署の屋根の上に乗せてくれた警官のことを私は決して忘れない。警官たちは皆とても背が高く体格がいいので、日本に行ったら「見世物」としてだって十分通用しそうだ。亀の背中に似たヘルメットとカバの頭のようなブーツは、何事にも悠長な彼らの気質を表わしている。
アールトコート展覧会の紳士淑女
上流の人間が自然なのは、金持ちで自分の
したいことができるからだ。下層の人間も
自然だが、それは絶望していて生活を高
めようと無理をしないからである。
だが、彼らの仕事の手並に見られる英国式の秩序には、ただ感嘆するばかりだ。実際、当地に住むようになってからずっと、目にするものすべてが規則正しく、秩序立って見える。例外が二度だけあった。それは「レディスミス」と「マフェキング」の日だ。ロンドンの南にある小さな下宿に住んでいた頃、下宿屋のおかみさんが親戚の若い女の人を紹介したいといってきた。部屋で待っていると、「ご婦人方」が入ってきた。最初の紹介がすむと、その娘さんは天気の話を始めた。日本の学校では、手紙を書くときいつも天気のことから書き始めるように習うので、これは私にはなじみのやり方だった。
ブッシュ・ハウスの霧と灯り
人間は生まれ育ったところの宗教に忠実である
べきだ。なぜなら、それが最も自然に受け入れ
られるからだ。そういった感情は美しいから。
次に彼女は、自分の売り込みにかかった。私は彼女が「絵が描ける」とか「楽器が弾ける」、あるいは「詩が書ける」などというのだろう、と思った。ところが驚いたことに、娘さんは「ローストビーフが焼け、パンを上手に焼ける」といい出した。それを聞いたとたん電光石火、私の頭に三つの違った考えが浮かんだ。 まず一つめは、大声で笑い出したい欲望。笑いが喉まで出かかったが、歯を食いしばって何とか耐えた。次に思ったのは、なんとかわいそうな娘だろうということだった。
ブッシュ・ハウス街路の雑踏
ラブシー氏はブロンプトン・ロードにある
「一房の葡萄」というパブの主人である。
私は時々英国流の生活を学ぶために、そ
のバーへ行ったが、上得意でもないのに
親切にしてくれ健康の心配もしてくれた。
おそらくこの娘さんは、親戚と身近にいるほんの数人の知り合い以外、世間のことを何も知らないのだろう。そして、その知り合いたちは、料理が上手であることをすばらしいとして、彼女をほめたたえてきたのにちがいない。それで今、何も知らないこの娘はそのことを無邪気に自慢しているのだ。 最後に思ったのは、彼女の考えはまったく正しいということだ。彼女の属する階級にあって、国家や音楽家、詩人であることに何の価値があろうか。彼女はきっといつか、職人の妻にでもなる。そうすれば、家をきりもりするのに料理の腕が一番大切、ということになる。
ピカデリー通りの霧と貴婦人
私は英国女性の熱心な崇拝者なのだ。彼女
たちのすらりとした肢体が三日月よりしな
やかに見え、白とピンクのその肌の色は美
しく国花バラを象徴しているようだ。
この娘は自分の立場を知っている。いや、むしろ自分の立場に満足しているとといったほうがいいかもしれない。私は自分が最初に笑い出しそうになったことを恥じた。そこで、心から称賛の言葉を述べた。 娘さんはとても満足した様子だった。やはり、私の最後の考えが当たっていたのだ。もし、彼女のような生活環境にある人間が私のようだったとしよう。芸術に関しては非常に野心があるが、商売に関してはいっこうにだめ、頭のなかはいつもぼんやり。これでは英国中がいっぺんに荒野と化してしまう。
セント・ジョージ病院の街路と群衆
チエルシー・コンサバティブ・クラブの
メンバーたちと会うのは楽しみだ。彼ら
がいかにも英国人然としていたからだ。
しかし実際は、この国の人たちは皆、自分自身の立場を知っていて、すべてが実にきちんとしている。このことが、英国の秩序の正しさを形作る最大の要素となっている。どの階級の人間も、それぞれの領分で生活を楽しみ、決して不満を爆発させたりしない。この国で、恐ろしい恐ろしい暗殺や無政府主義者たちの話を聞かないのは当然だ。
ハイド・パーク・コーナーの夜景
クリスマスイブにはあちこち町を歩き
回った。そして、クリスマスの飾りつ
けをした店やにぎやかな人混みに胸を
ときめかせた。
なぜかと考えることもほとんどなく、人々がミカド(天皇)を敬愛する国、日本に生まれた私は、英国人が国王に対して非常に忠実なことがとても心地よい。ネルソンズ・ディにトラファルガー広場にいったり、プリムローズ・ディにウエストミンスターにいくと、大勢の人が列をつくっているのが見られるが、これには驚かされる。人々は時計の針のようにゆっくりとしか動かずに列をつくり、一人ひとり見物をすますからだ。
ライフ・クラスの描画実習
人間の裸ほど美しいものはない。どんなに
腕のいい婦人服の仕立屋でも、自然が与え
たこの美しさを壊すことはないにしても、
それを増すことはどうしたってできない。
しかし、何といっても一番驚かされるのは、劇場の「平土間席」や「天上棧敷」への入り口での光景だ。そこに待つ人たちは、一つの劇を見るために早朝から開演時間まで、まる一日を棒に振る。二度とこない人生の貴重な時間を、待つことだけに費やすのだ。これには感嘆というより驚愕するしかない。私だったら、決してこんな「無駄な」忍耐はできない。おそらく英国人は日本人より長生きするのだろう。
霧のロンドン
チョーク・ファームの近くの小道を歩いていたとき、私はとても嫌な光景を目撃した。一人の母親が、生後数ヵ月の子供を乳母車に乗せて酒場に向かって歩いてきた。母親は赤ん坊を酒場の前に残し、なかに入っていった。しばらくして、黒ビールの入ったグラスを持って出てくると、中味を子供に飲ませた。赤ん坊は四分の一ほど飲んだ。その光景を見たとき、私は完全にわれを忘れた。足がフラフラして、二、三歩よろめいた。おそらく、
イールズコート駅構内の人々
マキノの芸術はハイブリッドとも呼ばれること
があるが、その理由は当然ながら、彼の絵が東
洋の精神に西洋の技法をうまく接ぎ木したもの
だからである。
この母親の属する社会ではこういったことは普通のことなのだろう。ホワイト・チャペルや、ランベス・マーシュ、あるいはそのほかどこでも、貧しい人々が暮らす地域に入ってみると、少年たちに混じって、道路を千鳥足で歩き、わけのわからないことを叫んだり、調子はずれの歌を歌っている少女たちをたくさん見かける。そういった娘たちは、人間として生まれたことがどんなに幸運なことか、わかっていないように私には思える。
リッチモンドの風景
日本の画家は数色の絵の具しか使わないが
マキノはその色リストを更に少なくした。
彼の作品のいくつかは、たった二色か三色
しか使わない。一色の濃淡だけのもある。
少女のなかには、貴族の人たちもうらやむような美貌の持ち主がいることもあるというのに・・・。彼らには自分自身を向上させたいという欲がない。彼らの生活は、動物の生活ほどの価値もないように思える。彼らに哲学や倫理の話をしてみると、われわれの質問に答えるだけの頭も心もないように思える。だが、いずれにせよ、「道徳」について彼らと論議することはできない。というのは、彼らの属する階級よりもっと高い階級の人間が、恐ろしい犯罪を引き起こすことがよくあるからだ。
ニューシアターの入り口に並ぶ人々
ロンドンを描いた画家は大勢いるが、
マキノほど完璧な目をもって全てを
再現した画家は今だかつて無かった。
頭がよければよいほど、その人間の起こす犯罪は凶悪になる。下層階級の人間が殺人を犯したという話は、たしかにときおり耳にする。だが彼らが殺すのは一人か二人だ。一方一国の君主が政策を誤れば、何百、何千という罪のない人間がそのために無駄死にすることもあり得る。もし、この世での人間の目的が、ただ単に幸福を探し求めることだとしたら、あまりに多くを求める人びと−とくに政治的野望に燃える人びと−より貧しい人びとのほうがきっと幸せだろうと私は思う。
マスタードフィールドの朝霧
感動を最小限の方法で表現するこつを
心得ている日本の画家にとっては、霧
の効果をうまく使うことはごく自然の
ようだ。
たとえばヨーロッパのある大国の統治者の例を見るがいい。自国の皇帝となるだけでは彼の野望は満たされない。彼の胸は常に痛み、生命は常に危険にさらされ、頭は常に心配で一杯だ。そして、しばしば悪夢に悩まされる。「黄禍!」という名の悪夢に。ホワイト・チャペルに住む人びとと比べたら、彼の生活は何とみじめなことか! 私だったら、ホワイト・チャぺルの人びとの生活のほうがいい。
ソールズベリー平原の朝焼け空
凍てついた大気、人間味あふれる人影
そして雪をかぶった優雅な姿を見せる
木々。ロンドンの解けかけたどろどろ
の雪を、実際以上に美しく描いている。
これはいけない・・・私は自分がただの絵描きにすぎないことを忘れていた!もうこれ以上深く、人間の心や頭について考察するのはやめて、形と色について話すことにしよう。ロンドンの街を歩いていると、いつも私は「英国は何と自由な国なのだろう!」と思う。建物はどれも思い思いの形で、道路も直角に交わっていない。これはわれわれ絵描きにとって非常にありがたいことだ。
ウェドハンプトンのホワイトレディー
マキノは作品をすべて日本式のやり方で、
つまり、その場では簡単なスケッチをする
だけで、あとは記憶と印象を頼りに描くと
いうやり方で仕上げるからだ。
ロンドンの人はとても保守的なので、古い建物や地区などをそのままにしておきたがる話しを聞いたことがあるが、私には、こうした処置は絵描きのために特別にとられたもののように思える。そうでないとしたら、ロンドンの人はみんな絵描きなのだろう。最近、私は建築について勉強を始め、ロンドンのいくつかの建物に大きな関心を持っている。しかし、そのことについてはここでは触れない。
湖畔の夕景
繊細で温かみに溢れた「湖の夕景」は、広重
が琵琶湖を見た時にインスピレーションを得
た情景を思い描かせるかのものである。
日本には「釈迦に説法」という格言がある。この街の建物が美しいのは、年月と霧のおかげだ。よく、理想とするイメージにぴったりのモデルや風景が見つからない、と不平をこぼす絵描きがいるが、私にいわせれば、霧のロンドンは理想のイメージをはるかに超えている。私は霧の成分を分析しにやってきた科学者ではないので、霧が体に悪いかどうかといったことは、私にとっては問題ではない。
月夜のウエドハンプトン
マキノの情熱をよりかき立てたのは、
夜の風景だった。しかも彼をもっと
も魅了したのは、灯りの色だった。
ともかく、霧の色と、それがもたらす効果は実にすばらしい。霧のないロンドンは、花嫁衣装を忘れた花嫁のようだ。私は秋の薄い霧だけでなく、濃い霧も好きだ。ここでは夏でも霧がベールのように立ち込める。はじめてロンドンを訪れたとき、建物や人影、そのほか遠くにあるすべての物が実際より大きく見えるような気がした。
ウェドハンフトンの桃源郷
1912年ごろ滞在していた、ウェドハンプ
トンにあるマナーハウス。私の部屋は最上階
にあり、南と西に向かって出窓が突き出てい
た。わくわくするような部屋だった。
日本では空気が澄んでいるので、遠くの物も細かいところまでよく見えるが、ここでは、遠くの物が霧に包まれ、突然ぼんやりして見えるからだ。私にはそれがたまらなく魅力的に思える。正直にいって、ロンドンの霧にすっかり見せられている私には、ここ以外で暮らすことなど考えられない。文章によってであろうが、絵によってであろうが、この美しい霧の街についての私の印象を表現することは非常に難しい。絵のほうが多少自信はあるが・・・。