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ブジャ氏に宛てた遺書には、キリスト教徒ではあるがキリスト教式の葬儀は不要である。葬儀を望む人たちの宗教で実施してもらってかまわないと書いてあっです。デンパサール民政部は軍装に袈裟掛けの従軍僧が導師となり、読経のもと線香を手向ける純日本式で取り行った。民政部長官、警備隊司令、邦人代表らがつぎつぎに焼香して拝礼した。その後に、ラジャの総代が焼香し拝礼した。そしてバリ側は八つの自治領のラジャが各領地内からヒンズー教の僧正を二人づつ同道して来て、総勢16人の導師が葬送を司った。円錐状に高く盛り上げられた生花と果物の供え物が次々次ぎと供えられた。
美しい生花で飾られた天蓋がついた青竹の台座に棺が安置され、ブジャ氏ら側近者たちによって担がれた。棺の前方には、白木綿の細布が長々とくりひろげられ妙齢のバリ娘たち(多くはデンパサール看護婦学校の生徒らしかった)が一列に並び、片手で布端を頭上に掲げ片手に花の枝を持っていた。白布を頭上に掲げる娘たちの長い行列の先には、市内の小・中学校と工業学校の生徒たちが花の枝を持ち小さな鏡や鈴のような楽器を持って並んだ。行列が動き出すと、棺の後に8人のラジャと16人のプダンダが続き、多数の郡長と村長はじめ役人、警察官、華僑有力者など数百人が後から続いた。
棺は日本人の黙祷に送られて発進し、家の前の道路から右に折れて本街道に出て、警備隊司令部前から華僑街までの中央大通りを一直線に北上しました。両側の店にも家にも紅白の弔旗が掲げられました。紅白の旗は9月7日に日本から独立を許容されて、国旗として掲げられるはずのものでした。この日から4年4ヵ月後に、戦い取った独立の証しである正式なインドネシアの国旗として掲げられることになる紅白の旗です。それはパパ・バリの死を悼む弔旗であると同時に、インドネシアの独立を勝ち取る決意の表われでもあったのです。オランダ軍司令部はそれが聖者の死を悼む弔旗であったために、その場で引き降ろすよう指示を出せなかったようです。
ある作家によると明治時代の日本人と、現代の日本人は別者ではないかといいます。そして、それは昭和時代に変わってしまったようだといいます。また、ある心理学者は日本の国を一つの人格に見立てて「和魂洋才」の時代から「脱亜入欧」の時代へと急激な変貌を遂げて、願望が現実から極端にかけ離れて分裂し精神病に罹患していると言います。
たしかに明治からの新しい国作りの目標は「富国強兵」であり、原動力は飢えからの脱却でした。そして、その効率化のための工業化でしたが戦後に進駐したアメリカが、強く勧めた「財閥解体」と「農地解放」が決め手となって、飢えからの脱却という"国民としての最低の保証"がようやく得られたのです。与えられた「民主主義」と「平和憲法」も強力な安定要素となっていますが、極端な「福裕」もなく、極端な「貧困」もない"国民総中流意識"現象が発生し定着した社会は好ましい社会だろうと思います。国が道を誤り敗戦の痛手を負い、焦土と化し食糧の自給率が低下したところに海外から大勢の同胞が引き上げて来て、再び飢えからの脱却という努力を国民は強いられました。しゃにむに働かなければ生きて行けない情況が朝鮮戦争の特需景気で弾みがつき、努力の成果が豊かな生活への歩みとして感じ取れることで「高度成長」へと急加速しました。
海外からはワーカーホリック仕事中毒と揶揄されましたが、そうしていることが快でありその後に過分な報酬が得られるのですから、自制心が利かなくなっても不思議ではありません。あの心理学者が言うように日本という国が精神病に罹患しているとしたら、その病状の苦しみから逃れるための嗜癖なり依存症であるということなのでしょう。どうも日本人はアマチュア・ギャンブラーのように、勝っているところで勝負をやめることができないようです。かつて満州国を建国したところで満足し、中国全土を手中に収めたいと思わなければ、という指摘がありました。西欧列強と植民地化した中国からの利権を仲良く分け合えば良かったと言っている訳ではありません。日中戦争から太平洋戦争への道を開かずに済んだのではないかと思うのです。中国からの膨大な利権を日本が一人締めしてしまうのを恐れた西欧列強は、国際連盟から追いだし孤立化させて自滅への道に追い込んだのです。ご存じのようにプロのギャンブラーは、最後までには必ず巻上げる実力を持っています。従ってアマチュア・ギャンブラーは、ほどほどで手を引かないと痛い目に遭います。日本人はアマチュア・ギャンブラーのようで引き際を知りません。
日本人の戦後の苦しみは、生きる意味を失いながらも飢えから逃れる努力をしなければならなかったことです。衣食が足りたならば礼節を知るわけですが、この時の日本人は衣食が足りた時に礼節を知ることにならなかったのです。高度成長経済をひた走り、バブル経済が弾けるまで、気付く機会を持てなかったのです。幸いなことにバブルが弾けた今、あの"良寛さん"が注目を浴び「清貧の思想」が話題になっています。バブルが弾けるまで気付けなかったのは情けないことですが、バブルが弾けて気付いて貰えたことは好ましいことです。
三浦襄はクリスチャンでした。三浦襄のキリスト教は、最も日本的なキリスト教と言えます。最も日本的であると言われている矢内原忠雄の無教会派よりもずーっと日本的と思えます。三浦襄がバリへ渡ってパパバリ(聖者)と呼ばれて敬愛されるようになったのが、クリスチャンであったからか、そうでなくてもか、を確かめることは出来ません。しかしクリスチャンであったなら、パパバリと呼ばれることにはならなかった。ということにはならないでしょう。クリスチャンだったら無償の善行をするとまでは考えませんが、前述の田内千鶴子の例もそうであったように、仮に平均的な日本人とキリスト教徒の日本人の平均を比較することが可能であるとしたら、あきらかにキリスト教徒である日本人の方が無償の善行を重ねているように思います。
ご承知のように戦後50年間の日本人の行動は、飢えから逃れるための努力から始まりました。しかし後半は飢えとは無縁になりながら、バブルが弾けるまで働き続けました。日本人は"働き蜂"であるとか、"エコノミック・アニマル"と言われながらも働き続ける様は、ひたすら手を洗い続けて指紋が消えても洗い続ける不潔恐怖症の患者さんのようです。不潔恐怖症は精神神経症(情動障害)の一種ですが、発症の原因は"不安"です。このことから類推しますと、日本人の働き過ぎの原因はやはり"不安"なのでしょう。いわゆる過食症(摂食障害)の患者さんは心の空白(不安)を満腹感で補おうと食べ続けるようですが、働き過ぎる日本人は心の空白(不安)を"もの"で補おうと働き続けて買い続けるのでしょう。狭い住まいを更に狭くしても買い続けるのです。
手をこまねいては餓死するような情況でしたら、働く意味を考える間もなく働かなければなりません。しかし、飢餓とも無縁となって生活に不足するものが見当たらなくなりますと、働く意味を考えて自分なりの納得が出来ていないと落ち着いて働いていられません。戦後の日本人は戦前の価値を全て否定されて、新たな価値を見い出せないままに来てしまった不幸があります。拝金主義もその一つには違いないのですが、わずかな期間の幸福しか得られません。生き甲斐と幸福には、哲学と宗教が必要です。
半世紀前にこの世を去った日本人三浦襄が、今を生きる日本人の私たちに一つの生き方を教えてくれているのです。
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