なぜ"三浦襄"なのか、「三浦襄」を推理する2

 

         

  オランダはキリスト教国ですが、カソリック教徒は3割余ですから、プロテスタントの国と言ってもよいでしょう。オランダ人は前述のアメリカ人と同様に個々が神と契約して精進していますから、異教徒で意欲的な者と出会いますと、改宗させて神の子の仲間に入れたくなります。その為には親身になって世話をして、その者の望みを達成出来るように援助して機会を与えます。

 三浦"七五三太"がオランダ船に乗り込んで、当時すでに東南アジアのハブ港になっていたシンガポールに寄港したことは十分考えられます。シンガポールは英蘭協定でイギリスの植民地となりましたがオランダにとってもその重要度は変わらず、いまも市内の山の手にホーランドヴィレッジという名前を残す高級住宅地があるほどです。いまも西欧人と日本人が数多く住み、日本人の間では"シンガポールの代官山"と親しみを込めて呼んでいるようです。オランダ人の船主がここに住み、オランダ人の船長が三浦"七五三太"を引き合わせたのでしょう。日露戦争に辛勝したものの日本国民の生活は冷害の年には餓死者を出すほどの疲弊状態でしたから、船主を前にして"七五三太"は、資源小国日本を豊かにして同胞を救うためには、海外諸国から原材料を輸入して工業製品を輸出する「貿易立国」しかないと力説したに違いありません。

日本人の若者が一人で母国を救おうとする意気込みに、船主と船長は思わず苦笑をしたに違いありません。しかし、若者の真摯な思いに心動かされ、一青年が国を救う話は別にしても、船主は思いを遂げる機会を与えて上げよう思ったのでしょう。オランダ人と日本人には三百年以上に及ぶ信頼関係があります。オランダは日本に植民地管理を任せようしていたようで、イギリスが日英同盟を結んだのも同じ理由だったようです。植民地管理を日本に任せようとしていたので、日本の半植民地:満州国を創ったまでは認めようとしていたのです。欧米列強は自国の権益が侵されないかぎり、黙認しようとしたのです。しかし日本は"大東亜共栄"の名のもとにその支配を欧米から奪い取り、日本が領有してしまおうとしたところから太平洋戦争が起こったのです。

 植民地経営には有能な中間管理者が求められています。青雲の志を抱いてはるばるやって来た、日本の青年:三浦"七五三太"はまさにぴったりの人材と思えたのでしょう。船主宅にハウスボーイとして住み込み、昼間は学校へ通い日曜日には家族と一緒に教会へも行ったでしょう。船に乗り込んで働いているうちにオランダ語と英語は覚えたでしょうが船員が使う下層の言葉では人の上には立てません。正しい言葉を学び、教養としての学問ばかりでなく植民地管理に必要な経営学と博物学は、のちの三浦襄自身にとっても得難い成長の糧となりました。オランダ人船主の家族と生活を共にするうちに、世界に通用する紳士の素養が身に付いたのです。

 ヨーロッパにおいて世界の覇者ローマ帝国の影響を受けた国と地域は、その文化と文明に浴した後も独自の文化と文明を発達させて来ていると言われています。アイルランドなどは辺境という物理的な理由とその価値を持たないという理由でローマ帝国の侵略を受けず、ローマン・カソリックのみが伝道された地もありますが、そもそもオランダは河口の低湿地帯であって"国土"が存在せず、文化や文明とほど遠い人間が住むところとヨーロッパの"文明諸国"から位置付けられていました。運河を掘り、掘った土を盛って土地を創り、大規模な干拓で国土を得たという歴史があります。

 あのフランスやドイツに近隣であっても侵略されませんでしたが、宗教は当然ながらカソリックの影響を受けました。しかし、後のプロテスタントをより多く受け入れました。"神頼み"のカソリックよりも、まさに手作りで国土と富を得たオランダ人には、神との契約で"自助精神"に重きを置くプロテスタントの教理の方が受け入れ易かったのでしょう。現在も国土は狭く人口の少ない国ですが変わらず自助精神に富み、宗教はカソリックが3割強でプロテスタントと改革派が7割弱を占めるという比率です。当時もこの分布とさほど変らなかったのではないでしょうか。

 三浦"七五三太"も航海中にジョウJoeと呼ばれ、船主夫妻からジョセフJosephと名乗るように勧められたのでしょう。それが、旧約聖書に由来する名前であり青雲の志を持って国を出たわが身と重複して、ジョセフと名乗ることを勧められたことを誇りに思ったでしょう。「襄」という字を当てて、日本名も「三浦襄」としたのだろうと思います。

 
 
 
 
 
 
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