幻酒嘉泉・田村酒造場 |
昔は、砂川街道(五日市街道)の欅並木は、昼なお暗く生い茂り有名だった。武蔵野の農家の庭には欅が繁って天空にそびえ、旅する人たちの道標にもなったものである。しかし都市化の波と樹齢千年余の老化現象の果て、維持管理の問題も絡んでか殆ど今日では切り倒され、武蔵野の面影は微かな名残を止めている。
福生の酒蔵、田村半十郎邸の欅は樹齢千年、40mも高く生い茂る木の枝々には所どころ傷みがひどく、当主・半十郎は「ここまで育った欅の命は如何なる努力をしても守り、後世に伝え残すことが我々の責任だ」と、樹木医の権威・山野忠彦先生に治療を依頼したものである。
樹木医の権威・山野忠彦先生
田村邸の千年欅は山野樹医が診た1020本目の"患樹"だそうである。請われて全国を漫遊し、枯れ行く由緒ある樹木を助けて30余年。その証の様に、真っ黒に日焼けした顔に年輪が深く刻み込まれ、髭が厳しく威厳を保つ一徹の父親のようだ。
山野樹医の施術の技法は、まず腐り欠けている部分を削り、殺虫剤と殺菌剤そして接着剤などを混合した「カールコート」塗料で傷面を保護します。やがて樹皮が表面を覆い、数年後には元どうりに治癒させます。また幹部が腐食し樹皮一枚でやっと生きている老木は、内部を削りそこに粘土を詰め込み、表面をモルタルで覆います。
樹皮から出る毛根を粘土を通して根元に戻してやる。そして根が太くなり十分に水分と養分を吸い上げて生き返るという治療法です。殺虫剤と殺菌剤そして接着剤などを混合した「カールコート」塗料と数種の栄養剤を混入した粘土の製法を尋ねると、逝って退く時には必ず残して行きますよと言う。
ビルならば13階建て位に匹敵する高い欅に、ぐるりと足場を地元の業者が組む大掛りな仕事だ。作業員たちは命綱を巻いて手際良く一本一本丁寧に治療を続けた。こうして欅たちは息を吹き返して、引き続いて幾百年も酒蔵を傘のように覆います。強い日差しを避けて蔵の温度を均一にし、酒造りに適した環境を守り続けています。
[創業]
文政5年(1822)玉川上水に沿って広大な邸を有していた旧福生村の名主、田村家の九代目田村勘治郎が酒造りを始めた。十二代目から現在まで四代が半十郎を名乗る。創業から明治中期まで多摩、神奈川、埼玉に24軒の店蔵(たなぐら)を持ち、総本店として統括していた。店蔵の中にはその後、独立したところも多い。
[銘柄]
造っている90種の清酒すべてに「嘉泉(かせん)」の名が付いている。水は酒の命。創業の際、仕込み水を求めて廷内をあちこち掘ったが、水量豊富な井戸が見つからない。鎮守の神官や古老たちそして方位学の専門家らの助言でようやく秩父伏流水と呼ばれる豊富な水脈を掘り当て「これぞ、喜ばしき泉」と<嘉泉>の名がついた。現在に至るまで、酒造りに必要な水はすべてこの井戸から汲み上げている。
[幻の酒]
73年、東京国税局鑑定官室長が「幻の酒と言われる<越乃寒梅>のような酒を大消費地・東京でも造るべきだ」と持ちかけてきた。条件は二級の本醸造で、65%の高度精白。当時としては破格の贅沢な二級酒だった。それが現在のベストセラー「嘉泉・幻酒」だ。玉川上水を邸内に引き込んだ水車小屋での精米が好評の一因のようだ。
[杜氏]
一般に酒の醸造職人は杜氏(とうじ)と呼ばれるが、造り酒屋では職人の親方だけを言う。一つの蔵に杜氏は一人。他の職人は蔵人(くらびと)と呼ぶ。杜氏と蔵人計8人が11月から翌年4月まで働いている。南部杜氏の里、岩手県の職人だ。かつて杜氏は仕事中によく歌った。様々な行程の微妙なタイミングを計る役目を果たしていた、という。現在では時計を使い、歌は聞かれなくなった。
[当主]
当主・田村半十郎は田村家の一五代目であり、造り酒屋としては七代目である。大学在学中に学徒出陣してシベリアに抑留され、戦後22年(47年)に復員して家業についた。79年に先代が亡くなり、半十郎を継いだ。長男・誠一郎氏は大学卒業後に洋酒メーカーで修業した、そして結婚し、すでに半十郎として外廻りの仕事をしている跡取りだ。
田村半十郎謹製 田村酒造場 郵便番号197 福生市福生626
電話:042-551−0003