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父親が息子を金属バットで撲殺した事件の裁判では、息子の「問題行動は一過性のものであり、適切な治療を受けさせて解決すべきもの」と父親の短絡が厳しく糾弾されたようです。確かにその通りには違いありませんが、その通りに出来ると親に思えたならば、このような事件は起こらなかったのではと思います。
かつての「開成高校生事件」の時もそうでしたが、精神科医を含めたカウンセラーたち専門家は「自然に治まるまで待つように」と概ね耐える指示しかしませんでした。家庭内暴力児は病感はあっても病院や相談所へは行きたがりません。親との緊張関係の中で負けを認めることになってしまうので、不眠やイライラ感から逃れたい気持ちがあっても行けないのです。そして、カウンセラーたちは来談した親の様子からだけでは家庭内の情況を的確に把握することができません。そもそも親が来談しなければ家庭内に暴力はあっても表に出ないわけですから、意識的で無いにしても、来談しても騒ぎ立てないで我慢するよう指導して、来なくなれば一件落着ということになってしまうのです。
来談する親たちは、時期が来れば「自然に解決するもの」なのか、或いは痛みを伴う外科手術のような「覚悟が必要なのか」と知りたいのです。そして、カウンセラーが解決策を教えてくれるものと期待します。ところが観念的に経験豊富なカウンセラーたちは、放って置いてはラチが開かない問題児をどう扱ってよいのか判らないのです。そもそも、インテイク(初診)の段階で、その問題行動が自然治癒するものなのか或いは思いきった治療を必要とするものかを「みたて」ることが極めて大切なのです。にもかかわらず多くのカウンセラーたちは「様子を見ましょう」などと平然と言い切ってしまいます。、様子を見ていられないと思ったから相談したのに、様子を見るようにと言い切られたのでは、相談した甲斐がありません。
精神科における入院判断の目安は「自傷」と「他害」ですから、病気の軽重よりも「保護」に重点が置かれています。そして事故を起さないための保護は、本来だれもが認める鉄則なのです。しかし「人権重視」を口実にして、保護という適切な措置が殆ど取られていないのです。個人の「人権と自由」を尊重するということは、「自傷と他害」があってもよいということではありません。中学生の「バタフライ・ナイフ」についても、同様のことが言えます。教育の場でその所持を許さず、チェックをするのは、人権とプライバシーを侵害するものではありません。大人たちが銃砲と刀剣の所持を規制されていて、飛行機に乗る時にチェックを受けるのと変わらない意味合いだからです。
親が子に正しい道を歩ませる責任を放棄し、教師が生徒に正しい道を教える責任を放棄しているから問題が起こるのです。国民総責任回避のような時代に、教えて貰えず導いて貰えない不幸が子どもたちにあるのです。
カウンセラーは責任ある判断をして、その結果の全てに責任を持たなけれ ばならないのです。不当入院で告訴されることを恐れるのではなく、その「みたて」が適切であると信じるならば、納得して貰えるまで向かい合えばよいのです。カウンセラーの言動は素人のそれとあまり違いませんが、それにともなう責任が違います。プロとアマの違いがそこにあるのです。残念なことに責任を取りたがらないカウンセラーが多いために、杉野兵曹長ならぬ" カウンセラーはいずこ "になってしまうのです。
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