その名は学生生活支援相談員2

                          中嶋柏樹

 

 富士山が霞み山桜が咲いて多摩丘陵が笑うと、新入学生たちが数人で連れだってキャンパスの隅々まで珍しそうに探索しまわる日々が続きます。

 保健管理センターの分室である、ここカウンセリング・ルームは、本館3階の西端にあります。廊下の突き当たりから屋上に出られる鉄扉があり「許可なく出入り禁止」と朱筆の表示があります。数人の足音がカウンセリング・ルームの入り口前を通過すると、暫くしてガチャガチャと扉を開ける音がして、バタンと扉が閉じる音がします。次はこの部屋のノックと期待するつもりもなくチラリ気にしていますと、コツコツと2回ノックする音が案の定します。ドアを2回ノックするのは欧米ではベガーノック(乞食の無心)と忌み嫌われるようですが、日本人は必ず2回と思っているかのように2回です。そして今まで例外的に3回叩くのは欧米文化に馴染んだ教員たちのみとの印象がありましたが、ここ数年は3回叩く者がいるようになりその多くは帰国学生なのです。うっかりプリーズなどと口走ることも出来ません。

 カウンセリング・ルームを訪ねて来る新入学生の殆どは、空き時間の暇潰しのようで、カウンセリングってどんなことをするのですか!と、必ずといって良いほど尋ねます。しかも興味を持っていると言いながら、聞いているふうはありません。ところが数は多くありませんが"ご挨拶"にやって来る新入学生が年々増えています。地方の高校在学中に精神科へ通院していて、上京する際に、大学の保健管理センターから通院先を紹介して貰うようにと指示されているようなのです。それまでは、数ヵ月分の薬を出して貰っていて、帰省の度に受診して処方して貰っていたようなのです。鄭重な挨拶をした学生が、上京を機に障害者団体の事務局長になりましたと挨拶したのには驚きました。不登校から通信制高校か大検を経由して来た学生たちによると他大学に比べて偏見が少なく快適な学生生活が送れると評判なのだそうです。通信教育部の社会人学生たちからも良く似た感想が聞かれることから、建学の精神が伝統となっているのでしょう。

 児玉九十先生の凝念での訓話では、明星学苑の「苑」はお花畑のそれであって、鉄の檻で囲まれた動物園の園ではないとのことです。都心の俗塵から離れていて、たしかに山上の別天地であり青春を謳歌する理想郷のようです。残念ながら環境が良すぎて野心や大望が育ちにくいようですが、円満な人格を持って未来に伸びる人材のための薫陶の場として好適地だろうと思います。ところが、このユートピアのようなキャンパスに縁あって集って来た学生たちの中に、馴染めず孤立する学生が年々増え出したのです。

 4月に入学して5月の連休まで誰とも会話する機会を持てず、必要な諸手続きが出来ていなくて連休で帰省したままになってしまったり、帰りたくても帰る訳には行かないからとアパートの自室に閉じ篭ったままになってしまいます。あるいは、授業中も昼休みも空き時間も孤立していて、楽しいことはアパートに帰ってインターネットでメールのやり取りをするぐらいしかないと言います。授業に出るのは単位が欲しいからで、単位を取って卒業はしたいと思っているようです。しかし、卒業してからはどうしてよいか分からず、思いつくのはフリーターになることぐらいのようです。

 馴染めずに孤立している学生たちは、気の毒にも、気持ちを誰にも訴えることができません。訴えたい気持ちを持ちつつも訴えられずにいると、心身に不調を感じ、病気であれば訴えられると無意識にも思うのか頻繁に訴えて来ます。不定愁訴を訴え続けるので休養室へ行って就床を勧めますと、おもむろにカバンからカッターナイフを取り出して手首を切って見せることもあります。救いを求める気持ちがこのようなことをさせてしまうのかと思いますと、大学生だからと全て同一に扱うのでは無くて成長や成熟の程度に合わせた援助は必要だろうと考えます。大学生を一人前と看做す伝統が未だに残っているために、自主性を重んじるつもりが放置になってしまっているのです。保健管理センターにカウンセリング・ルームを設置しましたのは、従来の活動に加えて「必要のある学生のために必要な支援を行う」機能を持たせるようにしました。

 「学生生活支援相談員」というネーミングは筆者によるものですが、文字通りの役割を持つカウンセラーを新規に採用することにしました。保健管理センターのカウンセリングルームに配置して、大学生活に馴染めないで不登校になってしまう心配のある学生の面倒を見てもらおうとするものです。

 心理学専修の大学院卒業生が応募して来ることが予想できましたので、学歴、資格、経歴など一切問わない募集にしました。そして「意欲」と「責任感」のみを採用条件にしました。そのねらいは見事に当たり、心理学系以外の学部卒業予定者から通信教育の社会人学生までが応募して来ました。

 個別の面接ではなくて10名前後のグループ面接とし、討論での発言内容で合否を決めることにしました。各応募者がどのような心構えを持って来たか、どんな構想を持って仕事をするつもりでいるか確認したかったのです。

 応募者たちに、カウンセリング・ルーム内の印象を尋ねますと、異口同音で明るい、綺麗、広い、日当りがよい、眺めがよいなどと不動産会社の営業部員のような発言しかしません。さすがに大学院卒業生は、静かで座り心地の良い応接セットなど、好ましいニュートラルな環境が確保されていると教科書的な発言をします。掲示されていた「学生生活支援相談員」を一目見て、当然それを理解しての応募と考えていましたが、彼らが想像する仕事内容は、従来のように部屋に詰めていて学生が相談に来たら相談にのるというスタイルから一歩も踏み出していません。

 学内で孤立している学生や、アパートに閉じ篭っている学生たちに働き掛けて、時には働き掛けを拒絶する学生に対しても良好な交流を作る努力をしなければなりません。しかし、そのような技術は学んでいないからどうして良いか判らないと言います。ところが、当って砕けろと言わんばかりになんとかなると考えているようなのです。無謀な働き掛けで傷つくのは学生ですが、傷ついた学生をみて敗北感を味合わされるのはカウンセラーなのです。

 そのために、傷つけたり事故にならないよう指導を受けながらの慎重さが求められる仕事です。とはいえ、営業マンやセールスレディが飛び込みで営業し、迷惑がられても通い徹して、ついに契約を取るという努力をなぜ真似ることが出来ないかと思います。初対面だったら挨拶し、親切にされたらお礼をいう、当り前のことを当り前することから人間関係は作られるはずです。友だちを作ったり恋愛をしたりするメカニズムを意識化して、学生の生活支援相談に応用出来なかったら役立たないのです。 

 カウンセリングの本流は来談者の求めに応じられるよう工夫して発達して来ました。しかし社会が多様化して続出する"社会現象"に、解決する方策を持たない心理学の臨床に過剰な期待が集中しました。不登校や家庭内暴力など自主的来談などは殆ど期待出来ない者たちの問題までも解決するよう期待されてしまいました。

 医師は患者を治せなくても医師ですから、一般科の医師は守備範囲を越えているから治せないと平気で言います。精神科の医師でも殆どは、連れて来て貰えなければ治しようが無いと言います。そしてやっとのことで連れて行きますと、質問に応えて貰えなければ・・・、薬を飲んで貰えなければ・・・、薬が効かなければ・・・などと口実をつけます。そして、その先は手の打ちようが無いなどと言います。

 ところが心理臨床家は患者を治せないと社会が治療者と認めて貰えないと強迫的に思っているようですから、依頼されてしまうと守備範囲を越えていると言えないのです。しかも医師の研修制度のような卒後教育に相当する、心理臨床家の卒後教育システムが整備されていません。そこで大学を卒業したらいきなり心理臨床家ですから、難しい専門用語を羅列し専門家のような顔をして背中に冷や汗を流しているのです。

 精神医学は、大多数派の生物学的精神医学と極く少数派の心理学的精神医学に分けることができます。前者は薬物療法を中心に治療を進め、後者は精神療法を中心に治療を進めます。心理学の臨床は心理学的精神医学の流れを継承して来ているので、そこに差異は殆ど見当たらず、心理臨床家は薬物を扱えない精神科医師のようになっています。それも努力して勉強し身につく経験を積んだ少数の人たちであって、殆どの心理臨床家は専門家になる自覚が乏しいのか、良き指導者に出会えなかった為か、基礎的な専門知識すら乏しく、臨床現場に携わる年数は多くても身についた経験は少ないようです。

 我が国の精神医療は生物学的な立場で薬物療法中心に偏重していますから、薬物治療の効果が得られないものは対象外にして来ました。しかし社会からの期待に抗しきれず、不登校や家庭内暴力など行動に問題のある子どもの治療を引き受けています。大学での精神医学教育では、これらを学ぶ機会は殆どありません。しかし、期待に応じる義務があると考えています。経験に頼るしか治療の方法を持たないのに、偶然に頼って治療を進め、古い諺である「神が治して医者が儲ける」の典型的なものになっています。最近の傾向として精神科医が臨床心理士の資格を取ったり、スイスのユング研究所へ留学して心理学を学ぶ姿を見かけるのは、苦肉の策なのでしょう。

 腐っても鯛と表現したら失礼になるかも知れませんが、研修を終えたばかりの新人医師でも指導医から厳しく指導を受けているようで、詰め込みであっても必要な専門知識は身につけています。そして臨床に携わる心構えも教育されているので、身につく経験を積み重ねて行けるようになっています。6年間の医学教育を受けて医師になり、卒後教育の研修を終えて"一人前"になった時点と、6年間の心理学教育を受けて心理学修士になり、臨床心理士の資格を取得するための卒後教育を終えて"一人前"になった時点を比較しますと、6年間の教育過程内の実習と卒後教育に大きな違いがあるように感じます。心理学の臨床に携わることを目標にして学ぶ者たちにとって、適切な指導が受けられなくて"半人前"のまま送り出されているのは、大変気の毒なことであると思います。

 テレビや新聞などに顔や名前を出している心理学者とカウンセラーの殆どは精神科医であって、信じ難いほど妙な事実ですが、心理学出身の心理学者とカウンセラーは極くわずかで例外ぐらいしか存在しません。事件が起ってコメントを求められた心理学出身の心理学者とカウンセラーは、素人でも呆れてしまうほどピントがずれています。女性週刊誌などで見かける「相性診断」は神社のおみくじと同じで、遊び半分ですから、楽しい暇潰しを承知で文句をいう人はいません。心理学出身の心理学者とカウンセラーは事件や社会現象に、それと同じ感覚で専門知識を提供しているのではないかと想像してしまいます。ひょっとしたら心理学をみくびっていて、人間の心など判るはずが無いと思っているのではないかと思ってしまいます。

 この100年に心理学は多岐に渡って様々な発達をして来ました。その最先端心理学の一つと言える行動科学的心理学は、従来の精神医学と臨床心理学に希望の光を与える示唆を与えてくれました。従来の精神医学と臨床心理学が苦手とする不登校や家庭内暴力などに治療可能な道を開いたのです。

 行動科学的心理学から既に「行動療法」という恐怖症など情動障害に有効な治療効果を上げる治療法がありますが、これも患者やクライエントが治して欲しいと望む前提が必要です。不登校や家庭内暴力など治療を拒絶している子どもたちには、従来の精神医学や臨床心理学と同様に、好適な治療法とは言えません。

  かつて筆者は行動科学的心理学を学び、次いで精神分析学的心理学を学びました。精神分析的な心理療法を習得してカウンセリングに従事していますが、多分に漏れず従来的な来談対応型治療者でした。しかし、高度成長経済と共に社会現象と呼ばれるほど不登校や家庭内暴力などが多出しましたから、小回りが利くので重宝がられて多忙を極めましたが、得難い貴重な経験をする中で「臨床心理学は行動変容の科学である」という言葉が念頭に浮かびました。治療を施すということは、「好ましくない行動を好ましい行動に変容する」ということであると気ずきました。

 心理学のO教授は小動物を使って学習実験をしています。共に愛犬家で一緒に愛犬の心理を研究しようという間柄ですが、必要がありますと、学生やその家族などの精神保健とその医療に関することを話し合うことが少なからずあります。不登校の閉じ篭りやノイローゼの疑いがあっても受診を拒否している場合などの処遇を検討する際に、筆者が経験に基ずいた試案を提供しますと、学習理論で検証して適格な返答を出して下さいます。

 そして従来の精神医学と臨床心理学の治療者が苦手としている不登校や家庭内暴力など「行動異常」の治療に有効な手段は「行動変容技術を用いて、好ましい行動に変容させる」この方法が最善であるとの認識を互いに持てています。受診してくれなければ治療出来ない。往診しても会ってくれなければ診察出来ないなどと言うことはありません。拒絶していても治療の対象になります。刺激し続けて反応を誘出し、好ましい行動を強化し、好ましくない行動を消去するよう新たな刺激を負荷するのです。

 不登校となる、食事をしなくなる、手首を切るなどは、救助を求める注意信号です。注意信号であることは、たいがいの親は気付いています。しかしどうして良いか判らず、どこへ相談しても騒がないで時期を待てと指示されてしまいます。放って置いて良いか良く無いかは親にも判ります。しかし、方策が見当たらず、結果として放って置かれることになります。

 自分ではどうして良いか判らないので「救助信号」を発信しているのに、それを放って置かれてしまうのですから、絶望し閉じ篭るしかありません。頼れるのは親しかいません。その親が助けてくれないのですから、すべてを諦めて閉じこもるしかありません。

 簡単に解決しないことは、閉じ篭っているご本人が一番よく知っています。しかも同時に、その障壁となっているものが、しごく当たり前のことであり大したことでもないので、誰もが難無く乗り越えていることも知っています。それが出来ずにいる自分の腑甲斐無さは身に滲みていますし、周囲からそう思われていることも知っています。

 閉じ篭っているのは外出できないからなのと同時に、外からの侵入者を防ぎたい気持ちがあります。自室の扉に錠をかけていることも珍しくないのは突然の来訪者に拉致されて連れ出されてしまうのを恐れているのです。

 当初は担任教師が来訪して登校させようとすることを恐れますが、時間の経過と共に保健所か病院から来訪して入院させられてしまうのではないかと恐れるようになっています。

 家庭訪問を望まないからと訪問しないわけには行きませんが、訪問を依頼した親が脅されるようなこともあります。そのような時には、親が指導を受けるという名目で訪問し、あえてご本人には会いません。親と面談していても、隣室や廊下で密かに聞いているだろうご本人に話し掛けるつもりで話します。訪問の意図が強引に入院させようとするような加害的なものでは無いことを知ってもらい、親の態度の変化から面談の効果に気付いて貰います。このような経緯の後に、質問する意図で面談に加わって貰えるようになれば、第一段階の目的を達成します。訪問した時に必ず会って貰えるようになりますと、質問が次々と出て来ることになります。目標を探す手伝いをして獲得方法を指南し、社会の規範を教えることになります。その年令に足らない部分を補充する「育て直し」法で行動の変容を計ります。もちろん「家庭内暴力」と呼ばれる過激な閉じ篭りから、殆ど「うつ状態」という静かな閉じ篭りまでありますが、破壊的な逸脱行動などの好ましく無い行動は消去し、自由な思考と行動に繋がるような好ましい行動を示したら強化するという意味に於いてはどちらも同じ考え方に基づきます。

 今日ほど精神医学と心理学が社会から期待されている時代はありません。しかし全地球的規模で眺めてみますと、経済的豊かさが突出している先進国に限られているように感じられます。手塚治虫のライフワークである「火の鳥」を思い出してしまいますが、文明が発達し過ぎて文化が追いつかないのかも知れません。かつて上下水道を未整備のまま伝染病を撲滅しようとしていた時のように、いまも社会資源と生活基盤を未整備のまま精神保健の問題としているようです。

 精神医学は治療法を持たない時代から、治療の役割を持たされて来ました。水風呂に漬け込んだ拷問のような治療から向精神薬治療までの歴史の流れの中で、精神医療が社会から期待された役割は病者を社会から隔離しておくことでした。そして今は、精神障害者の社会復帰と幼児から高齢者までの様々な精神保健問題の解決を期待されています。それに対して心理学は上述した心理学的精神医学の理論を借用して発達して来ているので、学習心理学と行動理論という有効な理念を活用せずにいます。

 「来談者中心療法」という名称の治療法があるように、来談が前提となっている心理治療法を学んだだけで「来談しない患者」を治療しなければならないのは、治療者と患者のどちらにとっても気の毒としか言い様がありません。臨床家を目指す心理学の学生たちが、そのために学習心理学をしっかりと学ぼうとする気風ができて欲しいと思います。

 

 ( なかしまはくじゅ 保健管理センター・カウンセリングルーム )

 

 

oak-wood@lovelab.org

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