懸賞エッセイ「母と髪」

 

 

 遠く離れた郷里の母を思うと、いつも若い日の母が縁側に引き出したミシンを踏んでいる情景が浮かびます。夏の日の母は半袖のブラウスにセミタイトのスカートでサロンエプロンを締めています。私はいつもその傍らで洋裁の道具をオモチャにして遊びハサミやノミのようなボタン穴をあける道具など、ちょっとした不注意で怪我をしそうなものばかりで遊びたがり、気が気でない母はときどき横目で私を見て困ったような顔をしました。

 病弱でいつも微熱を出している母はときどきサマーニットのカーディガンを羽織り、私がこっそりエプロンのひもをほどいてしまうのをほどきにくくするためにも羽織りました。私は母に見つからないようにほどくのが楽しみで、それを知らずに立ち上がって残念そうな顔をする母を見るのが幸せでした。洗濯掃除に台所仕事と朝から晩まで立ち働き、その間も寸暇を惜しむように家族の衣服を繕う母に、一寸でもよいからかまって欲しくて叱られるのでも楽しかったのです。

 冬の日の母はぶあついニットのカーディガンを着て首のまわりが寒いからとマフラーをして、掘炬燵に入って編み物をします。一日じゅう家の中を動き回っているためか足を出して座るよりも楽だからといい、いつもきちんと正座をしていました。私は母の横に潜り込んで膝の上に顔を乗せようともがきます。母は編み棒が目を突いてしまうからと、私の鼻をつまみます。私は息苦しくても膝から下りたくなくて必至に頑張りました。

 子どもの頃の私はいつも母と一緒でした。隣の町にある学校の寮に入るまでほとんど一緒に居たように思います。わたしも母もからだが弱くいつも風邪ばかり引いていたので家にばかりいたのではなく、母はわたしをいつも傍らにおいていたかったのではないかと思います。わたしの母はひとりっ子でしかも両親に早くに死に別れたので「子どもたちは自分の味方」と口癖のようにいつも言っていました。暗にわたしの父が母にとって」どんな存在であったかをも語っていたわけですが、その頃のわたしはナイトのような気分で母の信頼に応えようと思い、信頼されていることに誇りと喜びを感じていました。

 母はわたしが子どもであることにお構いなしに複雑な大人の世界の話をしました。自分の生い立ちのこと、女学校の頃のエピソード、思いを寄せていた人の戦死、父との出会いなど。父から熱烈なプロポーズをうけても分不相応で応じる気になれず、逃げ帰っていた郷里へまで訪ねてこられてしまったので、やっていける自信のないままに結婚したとか。話す相手が無かったので、子どもなりに理解するだろうと思って話したのでしょう。

 たて続けに子どもが生まれたので子育てに追われている毎日だったが、毎晩午前様で休みの日は好きなスケッチに出掛けてしまい「子どもだけが自分のもの」としみじみ語り、子どもを育てていて苦労に思ったことは一度もないし、子どもが傍らに居てくれるだけで幸せだったといいます。

 その母が、お父さんから「髪の毛がとても綺麗だったので結婚したいと思った」と言われたとか、「手も綺麗だったし、特にうなじが美しかったから」といわれたといいます。なにを考えながら手仕事をしていたのか、突然手をとめてしばらく遠くを見つめたのち冗談ぽく自慢そうにチョッピリ子どもっぽくいいます。

 自慢の髪とうなじを父に褒められたのが余程嬉しく、母にとっていわずにはいられない思い出だったのでしょう。 

 

 

 

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