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電話口から母親らしき女性のうわずった声が、浪人中の息子のことで相談したいといいます。そして唐突に来談した母親は、地方にある優良企業として中央にも名の通った会社の専務夫人ということで、それらしい身なりもお洒落もしています。しかし小柄で痩せて色黒いマラソン選手のような印象には、出世する夫を陰で支えた苦労がにじみ出ています。どうやら出世する夫に合わせて自分を磨く気持ちも余裕も持てなかったようです。息子のK君は高校球児か応援団のような印象で、長身でがっしりした体格は父親似なのか風格すら感じさせます。童顔で若く見えますが、23才で3浪の予備校生、中学と高校で1年ずつダブっているのだそうです。俳優の高倉健にでも傾倒しているのかと聞いてみたくなるほど無口で、身なりもきちんとし過ぎているのが気になりました。
母親によると、A君は高校に入るのも卒業するもの独力では不可能だったので、大学まではとても無理と思っているのですがと開口一番言います。しかし、何事も努力で克服できると思っている父親は、それでも“ある程度の”大学に入って欲しいと予備校に通わせているのだそうです。母親がしゃべり終わるとA君は、父親に行かされているのではなく自分の意思で進学したいと思っているとはっきり言います。しかし、予備校へは一日も休まず通っていますが、模擬テストは受けていないし、本番でも出願はしていても受験当日は試験場に行っているふうは無いのだそうです。この儘にしておいたら、5年でも10年でも予備校に通い続けることになってしまうので心配していると母親は訴えます。この子は赤ん坊の頃から手が掛かり、一人では何もできないのでつい手を出してしまい、手を出すから自立できないのだと周囲からいわれ、過保護だといわれ続けてきたといい涙をこぼします。
ところがA君はぽつりと「来年は必ず合格する」といいます。たしかに表面的な印象では、来年こそ合格できそうな息子と心配しすぎの母親のように見えます。しかし、このようなやり取りから事情がはっきりしました。A君はどう頑張っても、希望に実力が追いつかないことを承知しています。しかし、夢は捨て切れないし認めたくないのです。しかもそれが許されて認められる状況でもないので、あてもなく予備校に通い続けるしかなかったのです。あてもなく通うのは辛かったと思います。そこで、入学定員より受験生が少なくて全員入学となってしまいそうな大学を全国から捜して受験するか、通信教育部に入学手続きをすれば昼間通学生と一緒に授業が受けられる大学に進学するかなど、可能なかぎり進路を提示してA君に選択させました。選択させることは大切です。
「ウェイトレス」がメニューを手渡すときのさりげなさを参考にするとよいでしょう。A君は通信教育に難色を示し、意外な程あっさりと必ず入れそうな大学を受験して入学しました。バイト先を選べるほど数はない、大学祭に女子高生を呼ぶしかない。などと愚痴をこぼしていましたが、1年の留年で卒業できました。就職は毎年夏休みに帰省してアルバイトしていた有名家電メーカー本社工場の孫会社にスカウトされました。真面目な仕事ぶりが評価されたばかりでなく“大卒1号”の意味もあったようで、またA君は対外的に“有名企業”に就職できたといえるのがよかったようで、お互いに幾度も“お見合い”期間が持てたのがよかったようです。もちろん指導を受けながら母親はアパートへ通いました。そして細々したトラブルに頭を下げて回りました。まさに「黒子」に徹して陰から息子を支え通したのです。
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