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“おんな子ども”という言い方があります。女と子どものことでしょうが、子どもに対しては放言しませんから「子ども並の女」という意味であり、女は子どもと一緒に家庭にいて男専用の職場には顔を出すなという伝統的な考え方が含まれているようです。そして、“おんな子ども”という言い方は、庇護が必要な「女と子ども」に対して男たちがその決意を吐露する時などにも親愛の情をこめて口にします。“おんな子ども”が「弱者」を意味していて男が庇護を役割と考えているならば、これ自体は結構なことで異論はありません。しかし、求められていないのに「好意の押し売り」をしたら、迷惑以外のなにものでもありません。人を見て法を説けであり、性差別になってはいけません。
いつの時代にも犠牲になって泣かされるのは弱者であり、“おんな子ども”だという言い方があります。確かに事実として歴史が物語っています。男たちが勝手に争いを起こし、その争いとは全く関係のない“おんな子ども”が巻き添えをくって、暴行を受けたり殺されたり、塗炭の苦しみを舐めさせられてしまっているからです。かつては、夫婦においても“三行半”で一方的に離婚はでき、牛馬並の「足入れ婚」などというものがありました。子どもも、期待したようになりそうもないと丁稚奉公に出してしまい、恩を忘れて“親不孝”をしようものなら直ぐに「勘当」です。
姑に仕えて家事と育児をこなし、飲む、打つ、買うの三昧でも文句を言わない妻を得るまで「離縁」を繰り返し、外にもたくさん子供を産ませ、好ましい子どもだけ〈俺の子〉と「認知」すれば良いのですから、昔の“お父さん”は随分と気楽なものだったようです。改めて昨今の社会情勢を眺めてみますと、確かに日々の生活に豊かさは感じられていますし、戦後民主教育の成果も一応は感じ取れます。しかし一皮むくと、飢えに備えて頬袋にドングリを詰め込んだリスのようですし、巣穴に餌をため込み過ぎて寝場所を窮屈にしている野ネズミのように、誰もが精一杯という余裕のない姿がみえます。
その為か真の豊かさに必要な「社会資本の充実」と社会的弱者も豊かさを感じられる「社会資源の充実」が殆ど手つかずのままです。かつて高度成長がピークに達した時に、今こそその時と叫ばれたことがありました。欧米には繁栄を後の世に証言する制度や建造物が沢山残されています。出来るときにやっておく大切さは、出来なくなった時にわかります。バブル以降の経済は急激に減速し、かつてとは質を異にした“おんな子ども”受難時代の前兆のようなものが散見されるようになっています。
東ドイツが西側化された際の社会現象として就職の機会を奪われた女性たちは、職を得るために自分の子どもを殺したといいます。我が国のバブル以降のリストラは、女性総合職も含めてOLら女性社員は25歳で結婚退職するように動いているようです。25歳で“定年退職”した女性たちは香港で再就職しているようですし、そこには就職の機会が得られなかった新卒の女性たちも含まれているようです。香港は英国統治のお蔭で女性が差別を受けずに働けるのが魅力のようですが、当然のことながら国内がそのようであればわざわざ出ていく必要もないわけです。
無策のままに放置するなら、それは「棄民」といわれても仕方ないでしょう。弱者を切り捨てて成り立つ繁栄は虚構でしかありませんし、学校で「男女平等」を教えたら社会の仕組みも「男女差別」とならないように変えなくては本物にはなりえません。
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