キリスト者ジョセフ三浦の南方関与4

  

 

 語り継がれた有名な事件として、スパイの嫌疑をかけられ銃殺刑にもなりそうな小学校の先生を機転をきかせて救ったことがありました。無実の罪で罰せられる人たちをたくさん救ったことはありましたが、機転のきかせかたが絶妙だったのでしょう。それは、平穏な生活を続けている日々であっても、夜間は外出禁止で特別な許可証を持たないものは逮捕されて処罰を受けました。子どもの病状が悪化して医者を呼びに行きたくても夜間外出許可証を持たない教員の父親が、友人の警察官からその許可証を借りて医師を呼びに街へ出た際に起こった出来事でした。運悪く陸軍の巡察隊に出会ってしまい尋問をうけました。警察官になりすますことはできたのですが、私用外出に「公用証」を持っていたことで不審に思われ、分屯地内の司令部に連行されてしまいました。警官で無くて教員であることがばれて、スパイであろうということになりました。

 バリ人の間で評判の悪い日本人のことを 「ニップ」またはバリ語で「ゆでたまご」の意味の言葉で呼んでいました。なぜ「ゆでたまご」と呼んだかは、日本兵は場所を選ばず何処ででもドラム缶風呂に入っていたので、水浴の習慣しかないバリ人たちには奇妙なことと思えたようです。またバリ人はバリ・ヒンドゥの宗教的習慣から、中国の「風水」に似たこだわりがあったのです。一方的な尋問を受けてついこの言葉を口にしてしまい、新任の若い将校を怒らせてしまったのです。先任の特幹准尉は悪意の無いことを知っていたので仲裁にでましたが、大学出のエリート少尉のプライドが事態をこじらせてしまったようなのです。急を知らされ駆けつけた三浦襄は、病気の子どもの医者呼びであってスパイでないことを説明して納得をして貰いました。しかし、引っ込みがつかなくなったエリート少尉は一度判決した銃殺刑を撤回出来ません。事態は膠着し、夜は明けて来て一番鳥が鳴き始めました。

 エリート少尉の体面に傷がつかないよう配慮すれば解決できると考えた三浦襄は、日本人に馴染みのある「大岡裁き」や「相撲の痛み分け」の例を出し、江戸時代の昔から死罪を避ける方便として「遠島流罪」と「処払い」があることを思い出して貰いました。そのことから事態は急転して、銃殺刑が"閉居謹慎"刑に変更されました。デンパサール市内から「処払い」となり、郷里へ「遠島流罪」となったのです。殆ど無罪放免と変わらない処置であったことに気付かれることを心配するむきもありましたが、その人たちに「英語は解ってもバリ語は解らないから心配ない。バレるころには他の任地へ転属だろう。暫く辛抱してデンパサールが静かになったら、もとの教員生活に戻れば良い。」と涼しい顔をして言ったとのことです。バリと日本の双方の事情に詳しくて、バリ人のために尽力してくれたのですから、なによりも心強かったことと思います。

 日本の戦争指導者たちにとって「八紘一宇」と「大東亜共栄」のスローガンは、侵略と植民地化の鎧を隠す衣でしか無かったわけですが、それを信じた日本人は少なくなくアジアの各地でその夢の実現のために血と汗を流しました。アジアの国々の人たちと手を握り互いに協力し合って共に豊かな生活を実現させようとしたのです。アジアの国々が植民地支配をはね除けて、それぞれの自国が独立を果たし自由を獲得することが「共栄」に繋がると信じていました。しかし、独立を支援するための戦争でもあったはずが、いつの間にか傀儡政権を擁立して第二、第三の満州国を作ろうとしていたのです。しかも、夢が破れただけでは済まされず、国家総動員法で侵略戦争の遂行に協力しなければならなくなってしまったのです。心ならずも日本人であるが故にアジアの友を裏切らねばならなかったのは死んでしまいたくなるほど辛かっただろうと思います。

 母国日本が貧困から抜け出し豊かな国になるためには、南方諸国との交易で互いに補い合い助け合うのが道であると考えて雄飛したのです。国策として偽りの「八紘一宇」と「大東亜共栄」が打ち出される十年以上も前のことです。神の導きによりオランダ人とバリ人の恩ある人との出会いがあり、南方の地に活躍の地を与えられました。縁あったバリ人の生活を豊かにすることで、神から与えられた恩恵に報いることと信じて尽瘁したのです。そして、その成果としての「王道楽土」の建設が完成を目前にして、祖国からの覇道の軍靴がそれを蹂躙してしまったのです。しかも、日本人であるが故に不本意ながら協力させられてしまったのです。信じていてくれる人たちへの背信は、言葉で言い表すことの出来ないほどの口惜しさだったろうと思います。

 日本がインドネシアの独立を許容するはずだった昭和20年9月7日に自決したのは、生涯をかけた夢の実現を完成目前に打ち砕かれた悔しさ、信じてくれていた人たちを裏切らねばならない情況に追い込まれた悔しさ、バリ人の幸福とそれに繋がるインドネシアの独立を願う気持ちに偽りのなかったことの証としてのことだったのでしょう。戦争指導者たちへの激しい憤りとは別に、捕虜となって抑留された日本人たちも戦争犠牲者だったわけですから、無事祖国へ帰還できるよう引き上げ船に乗るまでの安全をお願いしたのだろうと思います。さらに驚くばかりの徹底ぶりは、自決するについて室内を汚さぬよう中庭のアタップハウス(ヤシ葺きの東屋のような小屋)を選び、粗末な棺をいつの間にか準備して中庭ぞいのヒサシの下に置かれてありました。(三浦襄は個人の資産は所有せず、住居もブジャ氏宅に"居候"していた。義父と息子のような関係になっていて、子どもたちは日本のおじいちゃんと慕っていたそうです。)そしてさらに驚かされたのは、街はずれの住民墓地の中のひときわ目印になる老樹のかたわらに棺のはいるだけの墓穴が掘らせてあったことです。

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